第3話



 彼女が分娩室に入ってしばらく経った頃、顔を真っ青にした男性が私に駆け寄ってきた。


「優子は?! 大丈夫なのか?!」


 大きな声を出す男性に落ち着くよう説得する。分娩室からは慌ただしく飛び交う声が聞こえてきていた。彼女の苦しげな声も。

 男性は倒れ込むように長椅子に腰を落とし、項垂れる。その両肩は微かに震えていた。


 私は男性の隣にまっすぐ背筋を伸ばして座り、分娩室の扉を見つめた。今、あの扉の向こうでは彼女が頑張っている。


「大丈夫です。娘さんは、必ず無事に生まれてきます」


 力を込めた言葉に、男性はゆっくりと顔を上げた。瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。


「そうだな……。少し弱気になってたみたいだ。ありがとう。君が居てくれてよかった」


 男性のそんな顔を見ることになるとは思いもせず、私は小さく微笑む。


「私も、ありがとうございます。昨日、生まれてくる子が私みたいだったら嬉しいって、そう言ってもらえて、よかったです」


 私の言葉に、男性は不思議そうな顔をした。

 その時、微かな泣き声が分娩室から聞こえてきた。弾かれたように男性が椅子から立ち上がる。直後に今度はしっかりとした、大きな産声が扉の向こう側から聞こえてきた。




 出産が終わり、彼女は疲れはてた様子でベッドに横たわっていた。それでも助産師さんが赤ん坊を連れてきてくれると、両手を伸ばし大切そうに胸に抱く。

 男性も彼女の側で膝をつき対面を果たしていた。しかしすぐに思い出したように立ち上がると、電話をしてくると言って部屋を出ていった。


「アイちゃんもこっちにおいで」


 近くまで歩みより、生まれたばかりの赤ん坊をじっと見つめる。なんだか不思議な気分だった。


「ほら、君の命の恩人、アイちゃんだよ~」


 大袈裟な。そう思いつつ、赤く小さな手に触れてみたくてそっと手を伸ばそうとした。そこでハッとする。


 自分の手が透けていた。


 まるで景色に同化するように、手の平の向こう側が透けて見えていた。私は慌てて両手を背中に隠す。まるで幽霊みたいだ。心臓はこんなにも激しく脈を打っているのに。

 そんな私に気付いた様子はなく、彼女は産後だというのに休まず喋り続ける。


「ねぇ、今日、母の日だよ。母の日に生まれてきてくれた。すごくない?」


 初めて会った時のように、彼女の感情は高ぶっているようだった。


「私、今この子に一生分の母の日をお祝いされてる気分だよ」


 彼女は優しい、どこまでも優しい声で、我が子に向けて言葉を贈る。


「生まれてきてくれて、ありがとう」


 少し涙混じりの彼女の声に、私まで泣き出しそうになってしまう。


「……その子も、生んでくれてありがとうって思ってるよ」


「ふふっ、そうかな? そうだと嬉しいなぁ」


 私は込み上げてくる気持ちを必死で押し込めた。ここで言葉にしてはいけない気がしたから。


 かわりに、あの日の質問に答えを返す。


「私の名前……藍色の藍って書くんだ」


「そうなんだ。藍ちゃん、いい名前だね」


 彼女は視線を上げて小さくうーん、と唸る。やがて頷き笑顔を浮かべた。


「決めた! この子の名前。ラン。藍色の藍って書いて、ランちゃんにしよう!」


 ラ~ンちゃん! と腕に抱いた赤子を呼ぶ彼女に、私は今すぐ抱きつきたかった。でも、そんなことはもうできない。


 視界がぼやけていく。


 我が子を愛おしげに見つめるその横顔がだんだん遠くに追いやられていき、やがて真っ白になった。






***



――ファァァーン!



 大きなクラクションの音とともに、目の前を大型トラックが凄まじい勢いで走り去っていった。


「……え?」


 暗闇の中、私は自転車に跨がった状態で固まっていた。


 何が起きたのか分からない。目の前までトラックが迫ってきていたのに。死んでしまったと思ったのに。


 私は自転車から降り、走ってきた道を歩いて引き返す。夢でも見ていたのだろうか。まるで迷子にでもなってしまったかのような気分だった。


「藍っ!」


 そんな私の名前を呼び駆け寄ってきたのは、懐中電灯を片手に着の身着のまま探し回ってくれていたらしい母だった。

 その姿を目にした瞬間、両目から涙が溢れ出した。自転車を放り出し飛びつくようにして母に抱きつく。そのまま子供みたいに声をあげて泣いた。





***



「来週、お父さん帰ってくるって」


「予定より早いね」


「頑張って仕事終わらせたみたいよ。来週は1年に一度しかない、大事な日が控えてるからね」


 お父さんらしい、と私は微笑む。

 散々泣きわめいてすっきりしたのか、ずっと鉛みたいに重かった気持ちはどこかに吹き飛んでいた。


 今はリビングの椅子に座り、赤くなってしまった目をどうにかしようと蒸しタオルを乗せている。その熱が冷めてきた頃、母が暖かいココアをテーブルに置いてくれた。私はタオルを顔から降ろし、お礼を言って両手で包み込むようにコップを持ち上げ口をつけた。


「今度、久しぶりに三人でどこか遠出でもしようか」


 何気ないふうを装った母の提案に、まるで全てを見透かされているように感じて思わず笑みがこぼれる。


 今までのこと、これからのこと、言いたい言葉は山のようにあった。

 けれど、今、これだけはどうしても伝えておきたい。


「お母さん」


「んー?」


「私を産んでくれてありがとう」


 私の唐突な言葉に、母は面食らったような顔をして、おかしそうに笑う。


「母の日は今日じゃないわよ?」


 その頬には片方だけ、よく見慣れたえくぼができていた。




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母の日birthday 本郷 蓮実 @hongo8

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