第2話


「あっ来た来た。聡志!」


 彼女は男性の名前を呼び手を振る。ちらりとこちらを見ると「私の旦那さま」と囁やいた。


 ベンチの前までやってきた男性は大量の汗を流しており、乱れた息を整えながら彼女を睨んだ。


「お前、なぁっ……! 追い、出されたって……!」


 そこまで言って言葉を切り、呼吸を整えると、言いたいことを一言に込めて思いきり叫んだ。


「馬鹿野郎っ!」


 耳が痛くなるほどの大声に、彼女は困ったような笑顔で「ごめん、ごめん」と謝る。反省の色が見えない彼女に男性は諦めたように吐息して、一先ずは無事であることに安堵した。それから私へ視線を向ける。


「君は?」


 警戒を含んだ眼差しに緊張していると、代わりに彼女が答えてくれた。


「さっき友達になったんだ。名前はアイちゃん」


「……見ない制服だけど、どこから来たんだ?」


「そういえば、親と喧嘩して飛び出してきたって言ってたよね」


 言われてみれば、ここはどこなんだろう?


 自分の住む場所を伝えると、男性は驚愕の声をあげた。どうやらここから県をいくつか跨いでいるらしい。彼女は「やるねぇ!」と楽しそうに笑った。


「えっと……できるだけ遠くに行きたくて……」


「いや、遠すぎだろ」


 男性の指摘に反論のしようもなかった。けれど、そもそもどうしてこんな事になってしまったのか分からないし、好きでここに来たわけでもない。何も言えずうつむく私に、男性は小さく吐息した。


「どうせくだらない理由の喧嘩だろ? 早く帰ってやれ」


 その言葉に憤りを覚えた。確かに、私の未熟さが招いた喧嘩だ。けど、そんなふうに言われると、抱いている不安まで馬鹿馬鹿しいと言われているみたいで、悲しくなった。


「アイちゃん、一緒においでよ」


そんな私の手を握って、彼女は微笑んでくれる。


「私、今日から聡志のアパートで暮らす予定だから、一緒にいこう」


「は? いや、ちょっと待て!」


「何? まさか身重の妻を野宿させるつもり?」


「いや、お前のことじゃなくて! なんで見ず知らずの女子高生まで迎え入れなきゃいけないんだよ!」


「いいでしょ? 情けは人のためならず」


 そう言って、私の手を引いて立ち上がらせてくれる。


「ねっ! 行こう?」


「でも……」


 行く当てのない私にとってはとても有難い申し出ではあるけど、部屋の借主は男性だ。

 恐る恐る視線を向けると、訝しげな眼差しと目が合う。しかし彼女が「聡志」と静かな声で名前を呼ぶと、諦めたように長い溜め息をついた。


「分かったよ。でも、おかしなことはするなよ」


「ありがとうございます……!」


 男性は彼女のバックを持ち上げると歩き出す。「よかったね」と私に囁く彼女は何故か自分のことのように喜んでいた。


「聡志は本当に駄目なことは絶対に認めてくれないから。アイちゃんは気に入られたみたいだね」


 彼女の言葉あっての結果だと思うけど。

 そう思ったけど言葉にはせず曖昧に笑って、私は二人のあとをついて歩いた。




***


 途中、買い物をしてから男性のアパートへやってきた。部屋は一階の角部屋で、小さな庭がついている。部屋の中は生活に必要なもの以外置かれていない。


 彼女は勝手知ったる他人の家のようで、一目散に冷蔵庫に歩み寄ると中を漁り始める。


「あっ! タイヤキ最後の一匹残ってた! アイちゃん半分こしよう?」


「おい! 夕飯前だろ」


「だってお昼食べてないんだもん」


 ウキウキしながらラップをかけたお皿をレンジに入れる彼女の後ろ姿を見ていると、自分も夕食を食べていなかったことを思い出す。とたんにお腹が減ってきた。


「どうぞ」


 彼女は半分に割ったタイヤキの頭のほうを私に手渡してくれる。尻尾の方は、すでに彼女がかじりついているところだった。


「……ありがとう」


 受け取ったタイヤキを見つめていると、よく母とおやつを半分こしていた思い出がよみがえってきた。


 大きめに切れたほうを、一粒でも苺が多く乗ってるほうを。タイヤキなら、あんこがたくさん詰まった頭のほうを、いつも母は渡してくれた。私は当たり前にそれを受け取っていた。

 それは普通のことで、当然のことで、当たり前のことだった。


 そう思ってた。……そんなことないのに。



「それで、追い出されたって?」


 彼女が食べ終わるのを待って、男性は口を開く。


「なんでこんな急に。予定日も近いのに、信じられねぇ……」


「だからじゃない? もともと、産むなら縁を切るって言われてたんだし、今まで家にいさせてくれただけありがたいよ」


 憤る男性とは違い、彼女は落ち着いた様子でバックの中身を確認する。


「一応私の通帳は入れてくれてるみたい。手切れ金ってやつかな。しばらくはこれを切り崩そう。聡志はこのまま大学行ってもらってて大丈夫だから」


「大丈夫じゃないだろ。これからどうしたって金は入り用になる」


「今でもたくさんバイト入れてくれてるじゃん。私のほうが申し訳ないよ」


「お前はいいんだよ」


「どうして私はいいの? 二人の問題だよ」


「無理してまた何かあったらどうするんだよ。二人じゃなく、三人だろ」


「お金のことは、この子に関係ないでしょ」


「そういうことを言ってるんじゃねぇんだよ」


 重たい空気が流れ始める。私はただただ、居たたまれなかった。


「そこまでして、産む必要あるんですか?」


 気が付けばそんな言葉が口からこぼれていた。


「……は?」


 男性の怒気を帯びた声と視線が向けられた。私は構わず続ける。


「つらい思いをして、苦労して育てたって、その子がいい大人になるかなんて分からないのに」


「お前っ!」


「私みたいなっ!」


 大きな声を張り上げ、男性の言葉を遮る。


「私みたいな……心配させて、酷いこと言って、悲しませる……親に喜んでもらえるようなこと何一つしてあげられない、そんな、最低な娘に育つかもしれないのに……」


 私は、不安だった。なりたいものも、したい事も、興味が持てるものも、何もない。そんな私は、いったい何になれるんだろう?


 想像もできない未来。私は、両親が喜んでくれるような大人になれないかもしれない。きっとそれが一番怖かったんだ。

 自分に自信が持てなくて、情けない自分を見られたくなくて。昔みたいに親の顔をまっすぐ見られなくなっていた……。


「なるほど」


 静まりかえった一室で、彼女が呟く。


「私はこの子を産みたい、この子に会いたい、そのことしか考えられてなかった。生まれた後も、きっと今まで以上に大変なのに」


 彼女はお腹に向けていた瞳を上げ、男性を真っ直ぐ見つめる。


「聡志の言うとおり、お金は大事で、いずれは私も働きに行かなくちゃいけなくなる。そうすると、どうしてもこの子に我慢させることが多くなっちゃう。私はこの子の未来の事、全然考えられてなかった」


 斜め上の受け取り方をする彼女に、私も男性も呆気にとられる。


「この子の未来のためにも、まず私達がしっかり生活できることが前提だったね。ごめん。もっと細かい所まで、ゆっくり話し合おう? 妥協できる部分は妥協して、お互いが納得できる方法をとろう」


 彼女の瞳はとても力強く、綺麗だった。

 男性は感情を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出す。


「……そうだな。俺も焦って視野が狭くなってた。悪かった」


 男性は私にも頭を下げて謝罪してくれた。失礼なことを言ったのは私のほうなのに。慌てて私も謝罪する。そんな私の頭を男性はポンと叩いた。


「お前は十分いい娘だと思うよ。家出は感心しないけど。生まれてくる子がお前みたいな子だったら、俺は嬉しいよ」


そう言って、微かにだが微笑みを見せてくれた。




***


 次の日、朝早くに私は目を覚ました。二人は遅くまで話し合いをしていたようで、まだ起きる気配がない。

 そっと布団から抜け出すと、身支度を整え台所に立った。


 失礼しますと心の中で呟き、冷蔵庫を開けて食材を確認する。お米を洗って炊飯ボタンを押すと、朝食作りに取りかかった。


 大方の用意を終え振り返ると、台所の入り口で佇む男性と目が合った。驚いて変な声が出そうになる。


「おっ!……はよう、ございます」


「ああ……おはよう。一瞬優子かと思った。朝ご飯作ってたのか?」


「一宿一飯の恩義にと思いまして」


 勝手に台所を扱ったことを怒られるかと身構えたが、男性は完成した朝食を見て美味そう、と呟くだけだった。


 彼女はまだ起きてこないようなので、先に二人で朝食をとることになった。味噌汁を一口すすった男性が美味い、と感想を述べてくれる。


「料理上手なんだな」


「うちは共働きで、小さい頃から家事の手伝いをしてたんです」


「……そっか。大変だな」


「いいえ。二人共たくさん感謝してくれましたし、私はそれがとても嬉しかったです」


 そっか、と呟いて男性はまた一口味噌汁をすすった。


 しばらく食事をとる音だけが室内に響いた。外からは自転車のブレーキ音や子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。初めての場所で聞く生活音。それなのに、私にとってここはとても心地よい空間だった。


「……父は、よく出張で家を空けることが多くて。他の家庭より一緒に過ごせる時間は少なかったと思います」


 唐突に始まった私の話に、男性は何も言わず耳を傾けてくれる。


「けど、私の誕生日や、学校のイベント事には必ず参加してくれて。貴重な休みの日には、よく一緒にお出掛けしてくれました。忙しくてなかなか会えなくても、私を想ってくれているんだっていうのが伝わって……両親には感謝しかありません」


「なら、早く帰ってやらないとな」


「……そうですね」


 多分、それはもう無理な気がした。だから、せめてもう少しだけここに居たいと思った。


 父と母になる二人の側に。


 それから男性はバイトがあると言って出て行った。今日は夜遅くまで帰れないそうだ。部屋を出る際「優子を頼む」と言って合鍵を渡してくれた。出会って二日目の人間に部屋の鍵を渡すのは不用心なのではないだろうか。起きてきた彼女に朝食を用意しながらそのことを伝えると不敵な笑顔が返ってきた。


「だから言ったでしょ? 気に入られたって」


 それから二人で部屋の掃除と洗濯をして、昼食を作って食べた。後片付けをして、午後からはどうしようかと思っていた時だった。


「アイちゃん……」


 か細い彼女の声に呼ばれた。


 嫌な予感がして急いで寝室を覗くと、そこにはお腹を押さえ苦しそうにしている彼女の姿があった。



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