母の日birthday
本郷 蓮実
第1話
母と喧嘩した。
きっかけは些細なことだった。
口論のすえ、私は逃げるように家から飛び出した。自転車に乗って、あてもなく走り続ける。
今まで消化しきれず積もり続けていた感情がとうとう頂点に達したみたいだ。胸の辺りがモヤモヤして気持ち悪い。それを吹き飛ばしたい一心で、力一杯ペダルをこぎ続けた。今はただ、どこか遠く、できるだけ遠くに行ってしまいたかった。
自転車の小さなライトを頼りに無我夢中で前に進み続け、やがて大通りまでやってきた時だった。
――ファァァーン!
強い光に照らされ、大きなクラクションが全身にあびせられる。大型トラックが目の前に迫ってきていた。
あ、だめだ。これ、死んじゃう。
今までの記憶が走馬灯のように脳内を駆け巡り、最後に家を出る直前に見た母の泣きそうな表情が思い出される。
死ぬ前にせめて「ごめんなさい」を伝えられたらよかった……。
後悔を抱いても、もう遅い。次の瞬間、目の前は真っ白になった。
***
「……?」
トラックが体に突っ込んでくる衝撃は、いつまでたってもやってこなかった。
恐る恐る目を開けると、そこは見知らぬ公園だった。青々とした芝生を裂くように伸びた園路の途中に私は立っている。少し離れた場所にはいくつか遊具が設置されていたが、今は誰の姿も見えない。
真昼のような明るさに顔を上げれば快晴の空が広がっていた。ぽかぽかと暖かく、周りからは小鳥のさえずりが聞こえ、木の葉を揺らす爽やかな風は心地よい。
もしかして、ここって天国というところなんじゃない?
呆然と立ち尽くしていた私が、そんな考えに至った時だった。
「こんにちは」
後ろから声をかけられた。振り返ると園路の脇に設置されたベンチに一人の少女が腰かけていた。目が合った瞬間、私は驚きで固まってしまう。
あっ……この人は……。
彼女は私の反応にどこか疲れたような笑みを浮かべると、隣に座るよう手で合図してきた。ここにいる理由も分からず路頭に迷っていた私は、示されるまま彼女の左隣に腰を落とす。
彼女の右隣には大きめのバックが置かれていた。旅行中なのだろうか。いや、それは考えにくいだろう。
まじまじと見つめる私に彼女はクスリと笑った。
「気になる?」
「えっ?」
彼女は自身のお腹をさする。臨月だろうか。いつ生まれても不思議じゃないくらい、彼女のお腹は大きく膨らんでいた。
「あ……えっと……」
私は慌てて視線をそらした。
「悪いものを見た、みたいな反応しないでよ」
「そういうわけじゃ……!」
視線を戻すと不敵な微笑みが私に向けられていた。その顔には片方にだけ、えくぼができている。妖艶にも映るその笑顔に、なんだか調子が狂ってしまう。
私は今一度、彼女を観察した。長い黒髪を背中に流し、ゆったりとしたクリーム色のワンピースに大きめのジャケットを羽織った彼女はとても不思議な存在に見えた。
「学校はサボり?」
彼女からの質問に、制服のまま飛び出していたことを思い出す。そういえば、乗っていた自転車はどこに行ってしまったのだろう? 私は近くに自転車がないか周りを見回しながら曖昧な返事を返す。
「その制服、この辺りじゃ見ないね。何年生?」
「3年生です」
「なんだ、同い年じゃん」
なんだかものすごく、グイグイくる。見た目は真面目でお淑やかなイメージなのに。目の前の彼女に強いギャップを感じてしまう。戸惑う私に、彼女はまた疲れたように笑った。
「なんでサボっちゃったの? 学校嫌い?」
「……学校が好きな人なんて、そもそも存在するんでしょうか?」
「敬語はやめてよ。うーん、まぁ、それもそうだね」
「……学校、嫌いではないんです……ないんだけど」
「なんだそりゃ」
あはは! と今度は楽しげに笑う。そんな、他人事みたいに思いきり笑いとばす彼女を見ていると、今なら全てを言葉にしてしまえるような気がしてきた。
私はぎゅっと拳を握る。
「……もうすぐ私の誕生日なんだ。誕生日がきたら18歳になっちゃう」
数年前、成年年齢は20歳から18歳へ引き下げられた。嬉しく思う人もいたんだろうけど、私はなんだか言い知れない不安を感じていた。
うまく言葉にできないけれど、まるで急かされているような気分だった。それは18歳を目前に更に強い焦燥感となって日々積み重なり、なかなか消化されてくれない。
「私、やりたいこととか、まだ何も見つかってないのに……。見つかってから準備したんじゃ遅いっていうのも分かる。でも、何も決まってない漠然とした状態まま前に進むのは、怖くて……。進路が決まってる子もいるのに、私だけ置いてかれてる気がして……」
見えない未来への恐怖。現状への焦り。毎日が苦しくて、早く目標になるものを見つけたかった。
だから、色々なものを見て知って触れてみたら、興味を抱ける何かに私も出会えるんじゃないかと思って、遅くまで外を出歩いてみたりした。
そうしたら母に「帰りが遅い」って怒られたんだ。母は私を心配して叱ってくれたのに、苛立ちが勝って口喧嘩になってしまった。
自分でもどうしてひどい態度をとってしまうのか分からない。思春期なんて、自分には縁のないものだと思っていたのに。自分自身が面倒くさくて、苛々する。苦しい……。
私は母と喧嘩になって家を飛び出してしまったことまで話し終えると、長く溜め息をついた。
黙って聞いてくれていた彼女はそこで初めて「ふぅん」と相槌をうつ。
「反抗させてもらえるなんて、いい親御さんだね」
「……そう、かな?」
「そうだよ」
なんだか釈然としない。そんな感情が顔に出ていたのか彼女は自身の事を話し始めた。
「私はJ高に通ってたんだ。今は通信制の学校に通ってるんだけど」
「……妊娠したから?」
「直球な質問だね。もしかして空気読めないタイプ?」
言葉とは裏腹に彼女は嬉しそうに笑う。
「私の両親はね、超がつくエリート。私にも同じになってほしかったみたいで、子供の頃から勉強ばっかりでろくに遊ばせてもらえなかったなぁ。反抗しようものなら家に入れてもらえなかった」
「……」
「そして、今日はとうとう家から追い出されちゃった」
「えっ!」
右側に置かれたバックが全財産だと言って、あっけらかんと笑う。
「勘当だって。でも、なんでだろう。私、自由なんだって、これからは自分のしたいように生きていいんだって、そう思ったら今すごく気持ちが軽いの。身は重いけど」
悲惨な状況にもかかわらず、本人は最後に軽くジョークを飛ばす余裕さえある。
なるほど。今の彼女は長年閉じられていた心の蓋が解き放たれ、興奮状態になっているのだ。そうと分かったら、先ほど感じていたギャップは嘘みたいに消えていく。
「いつか出会えるよ。興味が持てるもの。身構えてないで、肩の力抜いてさ、ボーッとしてたら案外向こうからやってくるもんだよ」
「そうかな?」
「そうそう、気楽に、気楽に! もっと視野広げてこう! じゃないと、大事なこと見逃しちゃうよ?」
明るい笑顔を浮かべていた彼女はスッと目を細める。過去の出来事を思い出しているような、どこか遠くへ向けられたその眼差しは美しかった。
「大切なものって、びっくりするくらい大きいんだよね。だから見えにくいし気付きにくい。視野が狭いと、ほんの一部分しか捉えられない」
「……だから、それが大切なものだって認識できない」
私が呟くと、彼女は驚いたように瞬きして嬉しそうに瞳を輝かせた。
「そう! 分かってるじゃん!」
ふいに風がふき、彼女の黒髪を揺らした。寒くないか心配するようにお腹を撫でる彼女の横顔は、まさしく母の顔だった。
自分なら、どうだっただろう。もし自分が彼女と同じ立場だったなら、今の彼女のような顔ができただろうか。
唐突に、隣に座っている彼女との間に大きな開きがあるような錯覚を覚えた。今更ながら、自分がとんでもなく未熟な人間に思えて、羞恥心に顔を伏せる。
「そういえば、お互い名乗ってなかったね。私は優子。あなたは?」
私は、まごつきながらも答える。
「あっ……アイ、です」
「アイちゃんか。漢字は愛情の愛?」
「漢字? えっと……」
「実はこの子の名前をまだ決めきれてなくて」
そう言ってお腹を撫でる。
「私は優秀な子になるようにってつけられたんだ。なんだか二人の願望を押しつけられてるように感じて好きになれない。だからこの子の名前は慎重に考えたいの」
優しく微笑む彼女の横顔に、私はなんと言えばいいのか分からず開きかけた口を閉じた。
「優子!」
沈黙が流れ始めた時、遠くから彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。見れば一人の男性が慌てた様子でこちらに向かって走ってきている。
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