第二章 義統忍、若き日の逸話

第5話 義統忍、小学生の逸話 驚異のデッサン力

 しのぶは絵を描いている母の真似をするのが好きだった。

 発端は幼稚園の頃。

 母・えつの動作をそっくりそのまま、絵筆で油絵の具をキャンバスに塗るところを似せるようになった。それは自分の世話をせずに絵ばかり描いている母の気を惹こうという幼心からだったろうか。


「忍、なにしているの?」

 母のアトリエにある空いたキャンバスの前に座って、忍は黙々と木炭でデッサンを描いていた。

 誰が教えたでもなく、母・悦子の見様見真似だ。


すぐるさん、忍が私の真似をしているようなの。なんとかならないかしら」

 母の訴えにモノマネを面白がった父・傑は忍専用のキャンバスとデッサン用のチョークであるコンテを買い与えて様子を見ることにした。


 画家の息子に画才は遺伝するのか。

 そんな調査をしてみたかったのかもしれない。


「忍、お前のためにこれらを買ったのは、お前の趣味になると思ったからだ。友達とも遊ばず、スポーツもしないお前には、なにか打ち込めるものが必要だろう。幸い絵を描くのが好きなようだから、お母さんの真似をして描いてみるがいい」

「うん」


 初めて自分のキャンバスを手に入れた忍は線が引けるだけで面白がる。

 最初はまったくなにを描いているのかわからない、ぐちゃぐちゃの、絵ともいえない落書きでしかなかった。

 しかし懸命に自分を真似ようとしていることに気づいた母は、息子にアタリのとり方から教えて、デッサンのバランスを意識するように指導する。


 その甲斐あってか日に日に上達していき、小学二年生で父が見ても完璧と思わせるデッサン力を身につけた。

 ある日キャンバスを覗き込んだ母は、ひたすら驚くしかなかった。


 小学二年生とは思えないほどデッサンはバランスがとれている。しかも当たり線は見当たらない。天性のバランス感覚を証明していた。


「これ、忍が描いたのよね。すごいわ。ちゃんと絵になっている。野菜や果物だけでなくアニメやマンガで好きな絵をひたすら模写するといいわよ」


 母は嬉しくなって、よいデッサンで描けていたらご褒美を出し、ダメならより良くなるまで同じ絵を何枚も描かせ続けた。


 母から褒められたい一心で、毎日何枚も模写してデッサン力を鍛えていく。

 友達と遊ぶことさえない。


 そのうち、手本としている作品のデッサンの狂いを感じ取れるようになり、「完璧な模写」のほか「正しいデッサンの作品」も描けるようになった。


 そして模写の対象は母の絵にも及ぶことになる。元々母の絵を真似ることが忍の目的だったのだから、至極当然な流れだ。



 デッサン力が完成した息子が次第に自分の絵を真似し始めたことに気づいた母は、忍に専用の油絵の具を買ってやり、着色の能力も高めようと試みる。


 母にかまってほしかった忍は、教えられた絵の具の塗り方を乾いたスポンジのように吸収していく。

 悦子は自らが描いた写実主義の作品を手本として忍へ徹底的に模写を教え込んだ。忍はそれを写真のような精度で習得していく。


 そして絵の具の盛り具合や力の加減をさまざま変えて、どの角度からどう盛ればどういうタッチが可能になるのか。それを体に叩き込んでいく。


 すでにデッサン力は抜きん出ており、手本を参考に四苦八苦しながらも筆遣いやタッチを寸分違わず丸写しできるレベルにまで達したのは、わずかな期間しか要しなかった。


 それを面白く見ていた父は、次第に忍の絵を得意のコレクターに見せ始める。

 商談の最後に毎度のように忍の絵を披露していく。


「うちの子はやはり画家の才能があったようで、妻の絵を寸分違わず模写できるレベルになったんですよ」


 母の絵と並べてコレクターに見せても、どちらが本物か区別できないほどだった。


「これ、本当に悦子さんの絵じゃないのかい。ここまで似せられるなんてたいしたものだよ。お子さんってまだ小さかったと記憶しているけど」

「ええ、まだ小学二年生、八歳になったばかりです」


「これが八歳の絵なのか。すごいですな。これは悦子さんを超える画家になるのも夢じゃない。先行投資として、ぜひこの絵を買わせてもらいたいんだが」


「いえいえ、まずは私のコレクションに収蔵しておきますよ。そして忍が著名な画家になってからお売りしたいんですよね」


「義統さんもあいかわらず商売が上手ですな。それではお子さんが有名になったら、真っ先に声をかけてくださいよ。きっとすごい値打ちものになりますからね、この絵は」

「そう言っていただけると、忍も喜ぶと思います。未来のダ・ヴィンチを目指してもらいたいものですね」


 傑は終始にこやかに応対していた。

 八歳の模写がこれほど高い評価を受けるとは想像もしていなかった。

 かなりすぐれていることは見て取れるのだが、親のひいき目の可能性もあるからだ。

 審美眼にすぐれたコレクターの目にとまるのであれば、本格的に絵を仕込めばいずれ高名な画家になるかもしれない。


「それでは本日お売りした、丸川優子先生の新作ですが、小切手をお願い致します。絵はいつもどおり三原先生がそのままお持ちいただいて結構ですので」

「そうだね。義統さんも次のお客が待っているだろうし。私を最初に選んでいただけて光栄ですよ。この丸川先生の新作は言い値で買わせていただこう」


 コレクターは懐から小切手帳を取り出して、手慣れた手つきで金額を記していく。そして押印してから切り離して、小切手を傑が受け取った。


 傑は丸川優子のパトロンでもある。審美眼には自信を持っており、彼女の作品をいち早く見抜いて専属となったことに誇りがあった。

 これで傑はパトロンとしてエージェント業で手数料を受け取るのは当然だが、画家である丸川優子にも残りの代金が振り込まれる。


 パトロンとは芸術家の作品を優先的に買い付ける代わりに、生活の面倒を見る職業だ。

 古来有名な美術家には必ずパトロンが付いて、美術家の生活の安定を保証していた。それが美術業界の健全なあり方とされているのだ。


 悦子の作品をすべて買い上げ、そのうち幾枚かの絵画が得意のコレクターの手に渡っている。

 そのため絵の実力の割に、作品を所有している人数が少なすぎるのだ。


 傑がなぜ悦子の作品を出し渋っていたのか。八歳の忍には理解できなかった。




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