星に手を伸ばす

加賀見ゆら

星に手を伸ばす

 幸せな夢をみた。

 眠りから覚めるやいなや、遥佳は重たい溜め息をついた。といっても、何がそれほどまでに幸せだったのか、細かい内容は思い出せない。それでも、あのまま眠り続けたかったと思ってしまうくらいには、夢の世界はたしかに幸福で溢れていた。

「1限だる……」

 第1志望ではないなりにも希望を持って入学したはずの大学は、いまや遥佳にとって、煩わしい日常の一部となりつつある。それでも、将来のことを思えばある程度真面目に通わざるを得ない。今楽な方に流されてしまえば、『彼』を応援し続けることもできなくなってしまうのだから。

 横になったまま、サイドテーブルの上のスマートフォンを手に取った。その液晶画面に表示された時間は、普段よりも30分ほど進んでいる。

「……やばっ!」

 弾かれたように上体を起こし、床に揃えられたスリッパに爪先を突っ込む。朝食は抜いて、化粧を最低限に留めれば間に合うだろうか。充電し終わったノートパソコンをトートバッグに詰めながら、遥佳の脳は遅刻を免れるための算段を立てる。

 不意に、視界の端に強烈な違和感を覚えた。急がなければならない状況にあるにも関わらず、遥佳は思わず手を止めていた。

「は?」

 遥佳は、呆然と違和感の正体を見つめ立ち尽くした。

 そこには、ただの透明な板と化したアクリルスタンドと、遥佳が応援しているアイドルそっくりの小人が佇んでいた。

「タカフミくん……?」

 10センチほどの背丈の彼はこちらを見上げ、にこりと微笑んだ。


 幸せな夢をみた。

 眠りから覚めるやいなや、遥佳は重たい溜め息をついた。ベッドの中には自分1人分の温もりしかない。もう仕事に行ったのか。寝返りを打つまでもなく突きつけられる現実を振り払うように、先程の夢の光景を思い返す。

 タカフミ――現在同棲中でもある彼氏の史貴ふみたか――が、自身のアクリルスタンドからサイズはそのままに実体化するという、何ともファンタジーな状況。部屋に大量のグッズを飾っていたり、クローゼットの中身が所謂『量産型』ばかりだったあたり、まだ純粋にタカフミのことを応援していた頃の自分だったのだろう。

「ていうか、今何時よ……」

 壁に掛かった時計は、既に正午を回っていた。そりゃ仕事にも行くか、と遥佳は独り言つ。今日は講義が入っていないとはいえ、こんな時間まで寝ていたことにほんの少しだけ罪悪感を覚える。

 ベッドから起き上がり、床に散乱した楽譜や雑誌を蹴散らしながらリビングへと向かう。付き合い始めた頃はよかった。史貴が振り付けや作詞だけでなく、作曲も始めたばかりのあの頃。今ほどの人気はなかったものの少しずつ世間に見つかりだし、いちファンとして見ても、史貴たちが売れ始めているのが肌感覚でわかった。SNSでは日に日にファンが増えていく中、2人は同じ部屋で暮らし始めた。週刊誌にでも撮られたらまずいと、遥佳の分の日用品を買ったのもベッドを新調したのもネットショッピングでだった。外でのデートなんて、まともに行ったことがない。お金だってそう余裕はなかった。それでも、遥佳は満ち足りていた。

「何時に帰ってくるかすらも教えてくれないわけ?」

 遥佳に直接帰宅時間を伝えられない時、史貴は置き手紙を置いてくれていた。わざわざ手紙を書く暇がない時は、後から連絡してくれていた。それが少しずつ減り、今では何も言われないのが当たり前になっていた。

 何も置かれていないローテーブルを見つめ、遥佳はまた溜め息をついた。


 幸せな夢をみた。

 眠りから覚めるやいなや、遥佳は重たい溜め息をついた。もぞもぞと布団から頭を出せば、目の前に広がるのは見慣れた自室の天井だった。交際できているだけで身に余るほどに幸せじゃないか。夢の中の自分のぜいたくな悩みに呆れながら寝返りを打つ。

「おはよ、タカフミくん」

 ベッドの脇に置いたテーブルの上では、着せ替え人形用のベッドが鎮座している。声をかけた相手はまだ眠っているらしく、寝息とともに掛け布団が微かに上下している。昨日散々物置を探してよかったと遥佳は頬を緩めた。

 小さなタカフミが現れて一週間ほどが経った。アクリルスタンドだったものは、依然として透明な板に成り下がったままである。ということはやはり、この小人はアクリルスタンドから飛び出してきたのだろうか。

 スマートフォンから充電器のコードを引き抜き、今日の予定を脳内で確認する。土曜日だから講義はない。夕方までバイト。以上。液晶画面に映る時刻は、アラームの設定時間よりも少し早い。時間になるまでだけ、と誰にともなく言い訳をしつつ、遥佳はSNSを開いた。

「わ、すご……」

 タイムラインは昨日の歌番組の話題でもちきりだった。その大半は遥佳がフォローしているアカウントのものであったが、時折見覚えのないアイコンの投稿が流れてくる。一つ一つプロフィール画面に飛んでみれば、普段は他のアイドルグループやアーティストについて投稿するためのアカウントばかりだった。『センターの子かっこいい』、『ファンの方! 金髪で背が高い子のお名前教えてください!』、『アイドル興味なかったけどこれは落ちたわ』などといった、好意的にも上から目線にも取れる投稿が、スクロールするたびに目に入る。

 最近、こういうことが増えた。売れるのはありがたいが、新規のファンが界隈を堂々と闊歩するのは苛々する。とりあえず、自分で調べもせず他力本願でタカフミの名を知りたがっているアカウントは、すぐさまブロックした。


 幸せな夢をみた。

 眠りから覚めるやいなや、遥佳は重たい溜め息をついた。ローテーブルに突っ伏していた頭を上げれば、カーテンの隙間から漏れる夕陽が瞳孔に突き刺さる。チカチカする目を擦りながら机上に視線を向ければ、クリアファイルから取り出された書類が広がっている。自覚はなかったが、久々の外出で少し疲れていたのかもしれない。人目を避けようとわざわざ遠い探偵事務所に依頼したことを、少しだけ後悔した。

「寝ちゃってた……」

 ぼそりとそう呟きながら、遥佳はその書類のうちの最新版を手に取る。『浮気・行動調査 報告書』と題されたそれには、地方ロケに行くと聞かされていたついこの間の日付が載っている。ページを捲れば、地味な格好をした女と史貴が仲睦まじげに手を繋いでいるカラー写真が現れた。コンビニで買い物をする2人。車の中でキスを交わす2人。白昼堂々ホテルから出てくる2人。襲い来る眩暈と戦いながらも、遥佳はそれらをひたすら目に焼き付けていく。

 相手の女は、先月史貴がクランクアップしたドラマに出演している女優だった。若手ながら優れた演技力の持ち主である彼女は、これからどんどん活躍していくだろう。そして、史貴は自分を捨て、より己の隣に相応しい彼女を選ぶのだ。遥佳よりも華々しい容姿と経歴を持つ、この女を。

「ひっ」

 心臓がバクバクと暴れまわる。喉がひくつき、言葉にならない声が漏れる。こめかみが悲鳴をあげ、視界には靄がかかりはじめた。

 全身に力が入らず、遥佳は床に倒れ伏す。意識が朦朧とする中、脳裏に史貴との思い出が浮かんでは消える。オレンジ色の夕陽が、ローテーブル下のフローリングに薄く積もる埃を照らしていた。


 幸せな夢をみた。

 眠りから覚めるやいなや、遥佳は重たい溜め息をついた。夢の中の自分への苛立ちをぶつけるように、毛布を思い切り蹴り飛ばす。

 いくら夢の中とはいえ、タカフミと恋人になれた幸せに感謝しないばかりか、彼に依存してばかりのあの女が自分だとは思いたくなかった。夢の中の遥佳の手は、酷く荒れていた。そうやって自分磨きを怠るから浮気されるのだ。どうせタカフミを手に入れた幸せで感覚が麻痺して、タカフミから与えられる愛情に胡坐をかいていたに違いない。

 スマートフォンを手に取ろうと、ちらりとサイドテーブルを見やる。人形用のベッドには、すでに目を覚ました手の平サイズのタカフミがちょこんと腰掛けていた。

「あ……。おはよ、もう起きてたんだね」

 表情を穏やかな微笑に作り替え、遥佳はタカフミに声を掛けた。

「……」

 タカフミはこちらをぼんやりと見つめたまま、こてん、と小首を傾げた。その様子に、遥佳はこっそりとまた溜め息をついた。

 この生き物は、タカフミではない。その事実を再び突き付けられ、遥佳の心に暗雲が立ち込める。本物のタカフミは、歌が上手くて、表情が豊かで、トークはそこまで得意ではないが核心をついたコメントをする、身長183.2センチの人間だ。口もきけず、いつも無表情な上に意思の疎通が困難で、サイズ以外の容姿は本物にそっくりな得体の知れないこの生き物に、遥佳は薄気味悪さを感じ始めていた。


 嫌な夢をみた。

 眠りから覚めるやいなや、遥佳は重たい溜め息をついた。腕や頬に触れる硬い床の感触で、自分が今まで気絶していたことを悟る。努力の甲斐もあってか、瞼を閉じれば報告書に添付された写真がはっきりと浮かんでくる。大丈夫だ。もう、大丈夫。肺の中で淀んでいた空気を全て吐き出し、目を開けた。

 起き上がって時計を確認してみると、探偵事務所から帰宅して1時間あまりが経過していた。期待はしていなかったものの、一応スマートフォンを確認してみる。案の定、史貴からの連絡は入っていなかった。いつ帰ってくるのだろう。そもそも今日は帰ってくるのだろうか。無造作に置かれた報告書たちを整理しながら、遥佳は唇を嚙み締めた。


 嫌な夢をみた。

 眠りから覚めるやいなや、遥佳は重たい溜め息をついた。初めはたまにみるだけだったのが、ここ最近では毎日のようにあの悪夢に苦しめられている。本当は自分でもわかっているのだ。夢の中の自分に腹が立つのも、タカフミそっくりの小人に嫌悪感すら抱き始めているのも、遥佳に容赦なく現実を突きつけてくるからに他ならないということを。

「ほんと、さいあく……」

アクリルスタンドから飛び出してきたタカフミと暮らし始めて、1ヶ月が経とうとしていた。最初は、嬉しかった。アイドルである彼を独り占めできた気がした。喋れなくとも、本物よりだいぶ小さくとも、彼が自分の手元にいることに幸せを感じた。この生き物は自分の庇護なしには生きていけないのだと気付いた時、遥佳の胸は高鳴った。それが煩わしさに変わったのは、本物の彼と違うことに苛立つようになったのは、いつからだろうか。

 サイドテーブルに目を向ければ、タカフミそっくりの生き物は人形用のベッドですやすやと寝息を立てていた。

「ごめんね」

 人差し指でそっと頭を撫でれば、小人の表情がほんの少し緩んだ。胸の辺りに居座る罪悪感を宥めすかし、遥佳はよろよろと机の方へと向かう。

 タカフミ。ドラマ。女優。結婚。アイドル。幸せ。生活。昨夜目にしたネットニュースの文言が、遥佳の脳味噌を駆け巡る。SNS上に飛び交う祝福と呪詛が、網膜でちかちかと瞬いている。

 カチ、カチ、と遥佳は手に取ったカッターナイフの刃をせり出す。サイドテーブルの上ではまだ、タカフミによく似た生き物が眠っていた。


 嫌な夢をみた。

 いや、「白昼夢」という方が正しいかもしれない。夜の帳が下りた路上で、遥佳は1人立ち尽くしていた。馴染みはないがどこか見覚えのあるこの場所に、己の記憶を手繰り寄せる。しかし、どうにも思い出せそうにない。何となく視線を下に落とせば、遥佳が普段から愛用しているローファーがツヤツヤと黒光りしている。

「ん?」

よく見ると、視界の外からローファーの爪先部分に水溜まりがゆっくりと手を伸ばしている。

 突然強く風が吹き、遥佳は俯いたまま思わず目を瞑った。髪がぐしゃぐしゃと乱されていくのが鏡を見なくとも分かる。自身が愛用しているヘアクリームの香りに混ざって、ほのかに鉄のような匂いが鼻腔に届いた。

 風がやみ、そっと目を開ける。水溜まりはすでに、ローファーの靴底を浸し始めていた。導かれるように、遥佳の視線は水溜まりがやってきた方へと向かう。

「へっ……?」

 べちゃり、と音を立て、遥佳は血塗れのコンクリートにへたり込んだ。

 遥佳の二歩ほど先、街灯の明かりが辛うじて届くあたりに、長身の男が倒れている。目を凝らせば、腹には包丁が突き刺さっていた。光を反射し煌めくその金髪が、遥佳には夜空に瞬く星のように思えた。

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