第7話

 モバイル決済で会計を済ませ、タクシーを降りると、激しさを増した雨が頭や肩を叩いた。大通りから逸れた、やや細い道沿いにあるカフェはとうに閉まっており、目を凝らすとガラス越しに暗い店内が見える。

 不意に、肩に降り注いでいたはずの雨が止んだ。

「こんばんは」

 振り返ると、背後に傘を持ったノアが微笑んでいる。少し頭を下げて、こんばんは、と返すと、彼は少し眉を寄せた。

「大丈夫? 傘は?」

「あ……宿舎に忘れて」

 大通りに出て、タクシーをつかまえるまでと、今タクシーから降りて彼を待っていた間しか外には出ていないのだが、思いの外激しい雨に身体はずぶ濡れだった。髪やコートの裾から水が滴り、コートの下のシャツにまで水が染み込んでシャツの色を変えている。

「このカフェのすぐ裏なんだ。父のアパート」

 彼は私が傘からはみ出ないように歩調を合わせて歩き、言葉通りカフェの裏側に位置する地味なアパートへと向かった。錆びた階段を上り、傘を閉じてズボンのポケットから鍵を取り出す。

「ここは、ばれてないんですか?」

 彼が鍵を挿し、ぐるりと一回転させる。

「ファンにってこと?」

「はい」

 扉を開け、どうぞ、と私を部屋に入れてから、彼は頷いた。

「ここは大丈夫。それに、案外ばれないものだよ。アイドルってそんなに知名度高くないから」

 確かに、今アイドルの国内での人気は高くない。どちらかといえば、演歌だとか洋楽だとかの方が人気な傾向があるように思える。それでも、F.Eのグループ名くらいは殆どの人が認知しており、ファンでなくとも曲を聞いたことがある人は多いだろう。

「そうでしょうか」

「確かにファンは沢山いるよ。でも、彼らはこんな所に俺がいるとは思ってない。予想してないんだ。だからすれ違ってもそうそう気づかない。サイン会とかじゃ、遠くからでもすぐ見つけてくれるけど」

 彼が電気をつけると、照らし出された玄関は生活感がなく、靴も数個しかなかった。今の時期には履かない冬用のブーツと、長靴、それから紺色の傘が綺麗に傘立てに立てられている。その横に濡れた傘を挿し、ノアは家に上がった。私も靴を脱ぎ、彼を追う。暗かったリビングに電気を灯し、ソファの背にコートを脱ぎ捨てると、彼は隣の部屋に消え、白いバスタオルと綺麗にたたまれた洋服を持って戻って来た。

「風邪ひくから、シャワー浴びて。あと、俺ので悪いけど、着てない服。濡れた服よりはましだろうから」

「すみません。ありがとうございます」

 バスタオルと服を受け取り、頭を下げると、前髪からポタポタと雫が落ちた。慌てて前髪を掻き上げると、掌に触れた額が冷えている。

 それを見て彼は、こっち、と私をシャワールームに案内した。

「石鹸とか、好きに使っていいから。ああ、もし君が嫌じゃなかったらだけど」

「ありがとうございます」

 扉を閉め、脱衣所を見渡して床に置いてある籠にバスタオルと服を入れる。彼の父親は几帳面な人なのだろうか、簡潔で清潔感のある脱衣所で生活感を感じさせない。服を脱ぎ、中折れ戸を押し開けてシャワールームに入った。脱衣所と同じく簡素で、シャワーの他には石鹸、シャンプー、リンス、だけが置かれている。シャワーで身体を湿らせ、少し逡巡した後、私は固形石鹸に手を伸ばした。身体を洗いながら、ぼんやりと白い壁を見つめる。

 ……よく考えてみたら。

 石鹸の泡立ちが悪い。しばらく肌を擦ってみるが、一向に泡立つ気配はなかった。

 ……先輩とはいえ、男性の家にのこのこ上がってよかったのかな。お父さんはいないって言ったけど、つまり、二人きりってことだし。

 なんとか泡立たないかと肌を擦るのを諦め、シャワーで洗い流す。レッスンの後、シャワーを浴びていなかったので、ついでに頭も洗うことにした。石鹸に反して、シャンプーは髪の中でよく泡立つ。最後にリンスをして、それも流してしまうと、髪を絞り脱衣所に戻った。バスタオルで身体を拭くと、タオルから消臭剤の匂いが宙に放り出される。借りた服は、だいぶ大きかった。彼が身長百八十センチだとしても十センチ違うのだから当然かもしれない。それでも考えて持ってきてくれたのだろう、ズボンはコットンのキュロットで、丈はちょうどよかった。紺の長袖のTシャツは、袖も裾も長く、私の手の甲をすっぽりと隠している。

 リビングに戻ると、ノアが何か教科書のようなものを広げ、シャーペンを回しながら考え込んでいた。向かい側のソファに座ると、どうやら言語の問題集だと言うことがわかる。

「Sun Rise事務所では宿題も出るんですか?」

 画数の少ない文字と、画数の多い複雑な文字が混ざっているところを見ると、日本語だろうか。

「ん? ああ、宿題じゃないよ。来月日本コンサートがあるから、できるだけ詰め込んで行こうと思って」

 ノアはそう言った後、私を見てクス、と笑った。

「やっぱり大きいね。ワンピースみたいになってる」

「そりゃ……身長が違いますから」

 そうだね、と言ってノアが問題集を閉じる。彼の後ろにある掃き出し窓から、外が見えた。他の建物の隙間から、空を覆う鉛色の雲が顔を覗かせている。窓の外のベランダを打つ雨の音が耳に響いた。

 さっきまで、一旦遠のいていた記憶が掘り起こされる。あの日の雨が、ここまで追いかけてくるような気がした。

「キリ?」

 気づかないうちに耳を塞いでいた。雨の音から逃れるように、あの日の私を閉じ込めるように。視界に入る空も雨の筋も、私の背を冷たく逆撫でし、私は思わずぎゅっと力を込めて目を瞑る。それでも指の隙間から甚雨の音が滑り込み、私の記憶をざらり、と撫でた。

「嫌……」

 湿った空気が、気持ち悪い。

 ふと、背中に温かい感触が降りてきた。柔らかいそれは私の背中を上に、下に、ゆっくり動く。少しだけ遠慮がちな、優しい動き。その動きに呼吸を合わせ、深呼吸してみる。

 吸って、吐いて、吸って、そうする度に少しずつ雨の音が遠ざかっていく気がした。それでも、音が完全に消えることはない。

「私が……」

 それは、甘えだったのだろうか。柔らかいソファと私と彼の他に誰もいない部屋、シャワー後の開放感に気が緩んでいたのかもしれない。一人で罪悪感を抱え続けることに、疲れてしまったのだろうか。それとも、君のせいじゃない、と否定してほしかったのだろうか。

「私が……殺したんです」

 背中を撫でる手が止まる。また、雨の音が強くなっていくのを感じた。

「あの日、私が」

 多分、私は怖かったんだと思う。自分の罪悪感に押し潰されるのも、誰かに責められるのも。いつか、アインが私に仕返しをしにくる気がしていた。

 誰かに否定してほしかった。誰かに慰めてほしかった。雨の日の孤独感を、消してほしかった。

 ――――だから、私は彼を拒否しなかった。

 背後から、そっとノアが腕を回し、躊躇いがちに私を包み込む。私が抵抗しないか、少しの間様子を見て、それから腕に力を込めた。背中に触れる彼の体温が温かい。少しだけほっとして、私は耳を塞いでいた手を緩める。まだ、目は開かない。彼は私の耳を軽く噛み、Tシャツの下から中に手を滑り込ませた。不思議と、怖くはない。もしかしたら私は予想していたのだろうか。こうなることを。それとも、ただ誰かの人肌を求めていたのだろうか。雨の音から逃れたくて。

 彼の手がゆっくり私の肌の上を這う。シャワーを浴びたばかりで湿り気を残した肌から、水分を吸い取ろうとするかのように指を押し当て、また離した。その動きに合わせて身体が跳ねる。手を耳から離し、そっと目を開けた。

 彼がソファに私を押し倒す。小さく、私の名を呟く声が雨の音に混ざって聞こえた。彼の瞳を見つめる。コンタクトレンズを外した彼の裸眼は焦茶色で、いつもの人懐っこい微笑みは浮かべていない。

 私は彼の顔に手を伸ばし、遠慮がちにその頬を撫でた。シャープな頬の線は、私のものとはまるで違う。

 遠くで、雷が落ちる音が聞こえた。

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ーIdolー 中尾よる @katorange

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