第6話

 つ……と、人差し指でスマホの画面を撫でる。明るい緑色のアイコンをタッチすると、画面上に知り合いの名前がずらりと並んだ。その中に、まだ見慣れない名前を見つけ、私は一週間前のことを思い出す。

“君たちと、話してみたくて”

 人懐っこい瞳と笑みを絶やさない唇、声色は穏やかで、後輩にさえ圧を感じさせない。私より、ミンジュンより高い背はちょうどアン・ジェイと同じくらいだろうか、怒り型の肩はがっしりと広く、そのせいで彼の頭をより小さく見せていた。

 小さくため息ををつき、壁にかけられた時計に視線を移す。夕食を食べた後、レッスン室でメンバーと練習をして、九時を回ってから引き上げて宿舎に帰って来た。シャワーを浴びなきゃ、と思ってはいたが、気だるさが身に纏わりつき、一向に部屋から出る気にはならない。気がつけば、十時になっていた。

「みんな、もう帰ってきたかな……」

 ベッドに背中から倒れ込み、天井を見つめる。天井には少し古びた白い壁紙が貼られていて、角に近づくと黄色く変色していた。レッスン室から先に引き上げたのは、私とミンジュンだ。その後、残りの三人が帰って来た気配はまだないが、流石にそろそろ戻って来るだろう。

 ふと、階下から物音がした気がして起き上がる。

 ……ミンジュン?

 扉を開けると、それは誰かが階段を上ってくる音に変わった。

「キリ」

「なんだ、アン・ジェイか」

 おかえり、と言おうとして彼の顔色が悪いのに気づき、首を傾げる。よく見るとレッスン室から宿舎まで走って来たのだろうか、首筋にいく筋もの汗が流れ、息も荒かった。

「アン・ジェイ?」

 タオルを取りに行こうと部屋に戻ろうとすると、手首を掴まれて振り返る。

「ナギルが倒れた」



 ――――声が聞こえる。

 二人の子供の声。楽しそうに、陽だまりの中の笑い声が揺れている。その後ろに、僅かな雑音も。

 誰の声だっけ、聞き覚えがある。何の音だっけ、よく知っている音。

 はしゃいでいた子供の声は、いつの間にか大人の男性の声に変わっていた。

 “————残念ですが――――”

 雑音は、さっきよりも大きくなって、その声を覆い隠す。袋に入れて抱え込み、もう二度と出てこないように慈しんで、その言葉が聞こえないように。

 出てこないで、言わないで。お願い。

 ――――ああ、雨だ。さっきから聞こえてたのは、土砂降りの雨の音。降り止まない、夏の雨の――――



「……から、安静にして様子を見ましょう」

「え?」

 顔を上げると、ブラウンのコートを来た医師と、マネージャーたち、そしてメンバーがナギルのベッドの前に立っていた。

「キリ、聞いてなかったのかよ」

 テオに言われ、ごめん、と小さく謝りながら頷く。

 目の前のベッドには、ナギルが横たわり、熱っぽい息を吐きながら眠っている。彼が呼吸するたびに、彼の胸が上下した。

「ソヌ・ナギルさんはレッスン室で、熱を出して倒れました。恐らく、デビューしたばかりで疲れやストレスも溜まっていたのでしょう、軽い風邪ですよ。ただ、免疫力が落ちてるでしょうから、インフルエンザなどを併発しないように、一週間は安静にさせて下さいね。今流行ってますから」

 そっと、彼の額に触れてみる。

「何度でした……?」

 汗で湿った額に、掌がじんわりと熱くなり、私は眉を寄せた。ドクン、と心臓が音を立てる。服の胸元を押さえ、医師やマネージャーに聞こえないように、息を潜めて深呼吸をする。

「ああ、三十七度八分です」

「そう、ですか」

 医師が帰り、メンバーがそれぞれの部屋に帰っても、私はナギルの前から動くことができなかった。さっきよりもずっと、鼓動が速い。耳に届くくらい大きく、心臓の音が響いている。

 ナギルの頬を汗が伝って流れ、枕に染み込んだ。ベッドの端に座り、額に張り付いた髪を払う。少しだけ眉を寄せたまま、彼は目を閉じていた。

 カーテンを開くと、いつから降っていたのだろう、小さな正方形の窓から雨が降っているのが見える。暗闇の中を、蛇のように雨が滑り抜けていき、地面に打たれて弾ける音が聞こえる。車の音も、今は甚雨にかき消されて、その存在を隠していた。

「……アイン……」

 身体が熱い。窓の外の蛇が、今にも飛びかかって来そうだ。眼球を食い破り、身体の内側に入って、私を侵蝕する。

「嫌……アイン」

 “大丈夫だよ、キリ、僕平気だから”

 どうして、笑ってるの。どうして、そんな目で私を見るの。嫌、どこにも行かないで。

 “キリ、ほら、笑って”

 笑えない、笑えないよ。もう、アインの顔が見えないから。視界が歪んで、表情さえもわからない。

 ねえ、今、どんな顔してるの?

 “――――残念ですが”

 言わないで――――――!!

 無意識に、スマホをポケットから出し、ロックを外していた。真っ先に目に飛び込む明るい緑色のアイコンをタッチし、LINEを開くと、彼の名前が目に飛び込んでくる。

 駄目だ。こんな時に、連絡する相手じゃない。

 そうわかっていた。でも、他の誰かを探す余裕もなくて、私はそのまま通話ボタンを押していた。耳元で、高い呼び出し音が何度か繰り返し流れた後、一瞬音が途切れ、代わりに彼の穏やかな声が耳に降って来る。

「もしもし?」

 暖かい声。まるであの日の陽だまりのような……

「……っ」

「キリ?」

 心臓が鳴る。荒い息を吐く。胸が上下して、目尻が熱くなった。

「キリ? どうしたの?」

 雨の音がする。彼の言葉を遮り、私の心に割り込んで思い出を掘り起こす。詰め込んで、蓋をした、その過去を。

 答えなくちゃ。電話したんだから、何か喋らなきゃ。夜分すみません、とか、電話してすみません、とか、なんでもいいから。

「……っ、あの……」

 言葉を発した途端、恥ずかしくなった。何をやってるんだろう、私は。もう少しで十一時にもなる、こんな時間に、先週一度だけ会った先輩に電話をかけて。一体何がしたいんだろう。変な人だと、失礼な人だと思われたに違いない。

「あ……ごめんなさい、私」

 窓が一瞬光り、ナギルの顔が照らされる。続いて、遠くで雷の落ちる音がした。雨が強くなる。蛇が、もうすぐそこまで来ていた。

 やめて————私の傍に、来ないで。

「ねえ、今から出て来られる?」

「――え?」



 通話終了ボタンを押し、ナギルの部屋から出る。自室に戻り、グレーのコートを羽織った。晩夏とは言え、夜は冷える。コートのポケットにスマホとお財布をしまい込み、そっと部屋から出た。一歩一歩、慎重に音が出ないように階段を降り、玄関のドアノブに手をかける。音がしないだろうか、蝶番が軋まないだろうか。ゆっくりドアノブを捻り、肩で扉を押す。開いた隙間に身体を滑り込ませ、外に出た。扉を閉じる時も音を立てないように気をつける。

 庭を突っ切り門を通り過ぎて、大通りへ出た。変装して来なかったことを思い出し、慌ててフードを被る。

 ノアに指定されたのは、ここから車で十五分ほど先にあるカフェだった。人気だとか、有名だとかではないが、安いため、時折練習生が訪れる。私もデビューメンバーが決まった時、値段が手頃だということで懇親会に集まったのはそこだった。

 “ねえ、今から出て来られない?”

 “――え?”

 “今君がどういう状況なのかわからないけど、電話をかけて来たってことは一人でいたくないのかと思って。話くらいなら聞けるから”

 “でも、あの”

 “大丈夫、こっちの宿舎に来いとか言わないから。俺の父のアパートがあるんだ。仕事で忙しいから今日もいないと思う”

 “でも、ノアさん”

 “気にしないで”

 目の前を、何台かの車が通り過ぎて行く。この雨の中、どこへ行くんだろう。或いは、仕事を終えて家族の元へ、急いで帰ろうとしているのだろうか。

 片手を上げると、こんな時間にも関わらず、すぐにタクシーがつかまった。フードを深く被り、後部座席に乗り込んでカフェの名前を言う。

「あいよ、でもお客さん、流石にもう閉まってますぜ」

「構わないので、行ってください」

 車が走ると、雨が車に追いつけずに後ろに飛ばされて行く。いくつかの滴は必死に窓ガラスにしがみついたが、それも間もなく力尽きるだろう。窓の外を見上げると、鉛色の雲が空を覆い、雲の向こうで瞬いているはずの星を隠していた。

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