【ひとり気晴らし】
梅雨に入り、じめじめとした空気が肌にぺたりと張り付くようで毎日憂鬱だ。
憂鬱の原因は雨だけではない。
有報の作業も大詰めといったところで、あれを修正これを修正、他の人からの指示に従うまま開示資料の編集作業をおこなっていた。
例のごとく通常業務の忙しさも重なり頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。
それでも4月頃の忙しさに比べればそれほどでもない。
それなのにイライラしてしまう自分が嫌だった。
キーボードを叩く音がうるさくて会社支給のものとは別にキーボードを買った。
ワイヤレス・静音・テンキー付きなのにコンパクト、この三拍子がそろったキーボードはネットですぐに見つかった。
それでも気が立った時、静音仕様のはずのキーボードはタカタカと音を立てる。
なんでこんなにイライラしてるのさ。
数年前から低気圧の日は出社するのが億劫だ。
学生の頃はそんなことなかったのに。
それ以外にも冬に手が乾燥しやすくなったし、痩せにくくなったし、髪も念入りに手入れしないとすぐボサボサになる。
歳を重ねるとはこういうことかと実感する日々を送っている。
今朝も雨の中通勤した時休みたいと思っていた。
しかし不思議なことに、そんな体調が少し優れない日も出社して仕事をしているうちに元気になってくるものだった。
私はそんな都合の良い自分があまり好きではない。
気分を変えようと給湯室へお茶を淹れに行くと珍しくシステム部の魚崎さんがいた。
メガネをかけ恰幅のいい魚崎さん。
システム部は(米田さん含め)表情が薄く不愛想な人が多いけど、魚崎さんは菩薩のように優しく、仕事で何を聞いても答えてくれる人だった。
「お疲れ様です。」
「お疲れ様。飯島さん体調悪いの?なんか、顔暗いよ…?」
「業務が大詰めでして…今月いっぱいの辛抱なんですが…。」
「そうかぁ。大変だね。ちょうど今から配ろうと思ってたから、これどうぞ。」
魚崎さんはお土産の箱を私の前に出してきた。
北海道の有名なラングドシャのお土産。
「私これ大好きなんです。」
本当に好きなのだけど、何でもかんでも「大好き」と言ってしまうのは良くないことだろうか、と心の中で思った。
「美味しいよねこれ。みんなには内緒で2個あげよう。」
ほら、こんなふうに多めにもらえてしまったりするから。
本当に本当にこれが大好きなんです!っていう人しか「大好き」という言葉は使ってはいけないのではないか。
そんな私の心のもやは、魚崎さんの奥様との旅行の話を聞いているうちにやや晴れていった。
席に戻り、ラングドシャをひとつは引き出しに、もうひとつはお茶のおともにデスクに置いた。
冷蔵庫に入っていたらしいそれは優しい冷たさを纏っていた。
ダイエットをしていて最近は食べていなかったけどまた引き出しのお菓子を補充しないとな。
職場でのストレスはこういうところから軽減されていくのだから。
PCに目を向けるとチャットの通知が来る。
「まだしばらく忙しそうですか?」
先月米田さんの家に行った時以来、結局一か月以上ふたりで会うことはなかった。
スマホのメッセでやりとりすることも最近なくなっていた。
祖母のこと、業務の忙しさですっかりそういう気分にならなかったのである。
「来月くらいに落ち着きそうならまた飯行きませんか。」
追いメッセージが届く。
そうだなぁ、来月くらいなら。
「大丈夫です。ちょっと今月はやっぱり忙しそうで…。来月なら月次作業終わった後なら。」
メッセージを返すとすぐに返事が来た。
「じゃあまた誘いますね。避けられてると思ってた。」
まあ、それもあるんですけど。
だって、次にどんな顔して米田さんとふたりで会えばいいかわからなかった。
恋愛慣れしていない私はただ一度セックスした相手とその後どんな関係でいればいいのかわからない。
ああ、仕事で忙しい時にこういうことを考えるのはやめよう!
ホワイトチョコのラングドシャを口に含み、熱いお茶を流し込む。
定時直前にまた、あれも修正これも修正…。
明日に持ち越すときっと帰り道でモヤモヤしてしまうのできりのいいところまでやってしまうことにする。
やがてすっかり外も暗くなりパラパラと社内の人たちも帰っていったので、ようやく私もPCの電源を落とした。
モニターが真っ黒になると同時に体の力も抜ける。
あれ、私もしかして今ため息ついた?
仕方ない、今日はストレス発散することにする。
家の近くの商店街には古くて安いカラオケボックスがある。
入口へと続く木製の階段は踏むとキシキシと音を立てる。
人が多そうな時間帯なのに受付ですぐに部屋を用意してもらえた。
小さな1〜2人用の個室には古い機種のカラオケ機器が置いてある。
部屋に着く前に寄ったドリンクバーではオレンジジュースを入れてきた。
このカラオケボックスは学生の頃に美波とよく行ったカラオケボックスに似ている。
内装も、機種が古いものしかないところも。
美波も私も最初に歌う曲はいつも決まっていて、今日もその曲を1番に入れていた。
私の青春も恋愛観も詰まったこの曲はひとりの時か、美波とふたりの時しか歌わない。
しばらく何曲か歌い、曲を予約しないままジュースを飲みながら食べ物のメニューを広げた。
いやいや…今日は食べに来たんじゃないんだから。
すぐにメニューを閉じジュースを勢いよく飲むと飲み終わりのズゴッという音を立てた。
ぼーっとしながらドリンクバーでまたオレンジジュースを入れている時にふとあるバンドの曲を思い出した。
米田さんが好きだと言っていたバンド。
食事に行った時何の話の流れだったか、米田さんはそのバンドのライブに行った話などを聞かせてくれた。
最近のアーティストに疎い私は帰ってそのバンドを調べてみたけど、普段聞き慣れないからかそのバンドの良さはあまりわからなかった。
でも1曲、バラードで好きだなと思える曲を見つけてその1曲だけずっと聴いている日もあった。
部屋に戻り、さっそくその曲を予約する。
歌詞の内容は叶わなかった恋のこと。
歌っていると、高校生の頃少し憧れていた先輩のことが思い出された。
米田さんもこの曲を聴いて過去の恋を思い出したりするのだろうか。
歌い終わると、ちょうど夢の終わりを告げるかのように部屋の電話がピルルルルと音を立てた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます