【ひとりコンビニ】
新年度が始まると毎年記憶喪失になる―――。
そんな大げさなことを入社当時に田中さんに言われ、まさかそんなと思っていたが、2年目以降その言葉は身に染みるほどよくわかるものとなってしまった。
四半期の比にならないほど本決算はやることが多い。
業務では何をやったか・何がまだできていないかがごちゃごちゃになり、何をするにも時間がかかってしまうように感じた。
事務職というのは業務が属人化しがちだ。
うちの経理部も例に漏れず、マニュアルは個人が独自のものを持っている状況になっていた。
3年目になった時このままではいけないと思い、業務での注意事項から小さな疑問点までをPCのメモにずらっと入力し、あとでまとめるようにした。
そして、今年もまた新年度が始まってしまった。
通常業務と決算業務に忙殺されながら毎日のように残業している。
5月の半ばになり、ようやく少し落ち着きが見えてきた。
花見を楽しむ間もなく過ぎていった4月には、一度も
こちらの忙しさを知っているから、米田さんから誘ってくることもない。
二人で会ったのはホワイトデーが最後だった。
…つまらないな。
私も「つき合っているわけじゃないし」という気持ちから、ごはんの約束などを取り付ける連絡はしていなかった。
ていうか、そんな心の余裕はなかった。
そして金曜日の今日も、何も予定なく家へと帰っている。
電車の扉にもたれてスマホの画面を見ると時間は21時を回っている。
おなかすいた。
からっぽの頭にその言葉だけがころんと転がり込んだ。
家に帰ったら軽く何か食べよう。
冷蔵庫に何が入っていたかな。
あー、頭働かない。
開くドアから出て、改札からも出る。
家へ向かう道をトボトボと歩いているとパッと明るい光が現れる。
神がかった光の正体は、みんなの神、コンビニ。
吸い込まれるように体が自然とコンビニへ向かっていった。
自動ドアが私のために開いてくれる。
客もまばらなこの時間。
レジの店員たちも暇そうに会話をしている。
手前の日用品棚をスルーして奥へと向かう。
ドリンクの扉の前でしばらく悩んだあとビールの小さい缶を手に取り、入口へ戻って買い物カゴを取り上げた。
さて、次は何かおつまみを買おう。
一番奥の棚へ行くと、カップルが同じようにおつまみを選んでいた。
「やだー、そんなの夜遅く食べたら太っちゃうよ。」
「じゃあ俺が食べる。」
「えー、私もひとくち食べる!」
楽しそうにくっついて喋るカップルの横で、買うものを迷っているふりをして頬に手を当てていた。
早くどいてほしい…。
いつになくイライラしてしまっている自分をなだめて、別の棚にあったさきイカの袋をカゴに入れた。
カップルが去り、すかさずお惣菜の棚の前に躍り出た。
今のコンビニって、がっつりしたご飯ものからおつまみにぴったりの一品ものまでたくさん並んでいてすごい。
値段は少し高いけど、食べるものに困ったらここに来れば何でも揃っている。
からあげ…たまにはいいよね。
お、これ美味しそう。イカときゅうりのねぎ塩サラダだって。
さきイカと被るけど、まあいいか。
豚の塩焼きそば…これは絶対にお酒がすすむわ。
焼きそばには30円引きのシールが貼られている。
理性など忘れ、カゴへと入れていく。
ゆるく続けていたダイエットも無に帰す食べ物たちをセルフレジに通していく。
なんとなく、大学時代のことを思い出した。
初めて当時の彼氏・
遅くにふたりでコンビニへ来て、さっきのカップルみたいにお酒のアテを選んだ。
スキンケアのセットと下着をこっそり買ったのを覚えている。
コンビニに行くだけでも「デートだね」なんて言い合って手を繋いで歩いていたあの頃、初めての恋人に浮かれて楽しんでいた。
もうあの頃のような、何の忙しさも不安もなく純粋にその時だけを生きているような気持ちの恋はできないような気がする。
それは私が28歳で、社会人で、大人になってしまったから。
レジの前でスマホを見た時にメッセージが来ていたことに気づいていた。
コンビニを出たところで改めてスマホを開くと、メッセージは米田さんからだった。
なんとなくそんな気はしていた。
「毎日お疲れ様。落ち着いたら飯行こう。」
以前に比べてメッセージでの口調が堅くない。
タプタプとスマホをタップする。
「お疲れ様。米田さんの家で飲みましょう。」
ちょっと積極的すぎたけど、いいや。
5月の夜の風は涼しくて、伸びた髪の間を通り抜けていく。
レジ袋からビールを取り出す。
カシュッ
ごくごくと喉に通っていく黄金の水。
そのままコンビニの前で米田さんからの返事を待った。
既読がついたままだ。
ビールを飲みきる頃、やっと返事が来た。
「もし空いてたら、明日の昼からうちに来ませんか。」
また堅くなる口調。
緊張がメッセージ越しに伝わってくる。
男の人を可愛いと思ったのは米田さんが初めてかもしれない。
ビールを飲み干し缶を潰してゴミ箱へ。
眩しいほどに照らされる蛍光灯の光がさっきよりも強く感じる。
家でもう一本飲もうと急いでビールを買いに再びコンビニへと入っていった。
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