【ひとりバレンタイン】

今回も決算発表まで頑張った自分に、早退というささやかなプレゼントを与える。

2月の凍てつく風が首元を通り過ぎていく。

重い灰色の曇り空には、黒い飛行機がゆっくりと飛んでいく。


冬至から2ヶ月近くも経つと、短かった日も少しずつ長くなっていくのが感じられる。

春に向けて準備しているこの季節は、急かされる気持ちもあるけど好きな季節だ。


今日は何をしよう。

前のように銭湯に行くかと思ったが、着替えやタオルを準備していないので一度家に帰らなければいけない。

家でゆっくり飲むのも良いが、家にお酒がないのでどこかで買って帰らなければ。


決めかねて地下鉄の改札をくぐると壁に貼ってある大きな広告が目に入った。

人気アイドルグループのセンターの女の子がアンニュイな表情でチョコレートの入った箱を持っている写真。


ホームにすぐやってきた電車に乗り、隣の駅で降りた。



百貨店というのは特別なことがない場合普段は寄らない場所だ。

友人への結婚出産祝いとか、親戚へのお年賀とか、そういうものを買いに来る場所だと思っている。

デパ地下のお惣菜売り場なんて、高くて自分のためには滅多に買えない。


飲食店などとは違い、百貨店は平日もまあまあの人出だ。

しかも今は駅で見た広告にもある通り、バレンタインイベントもやっているからなおさらだ。


上の階の催事場へ赴くと、多くの店が並び、人がひしめき合っていた。

多くは女性で、皆真剣な眼差しでキラキラ光るチョコレートを見つめていた。


エスカレーターの降り口に積まれていたイベントのマップを手に、人の少ない壁側へ。

マップはカラフルで、店の番号にはジャンルごとに色がつけられていた。

カカオにこだわった店、有名ブランドの店、ベルギーチョコの店、日本のチョコレートの店、映えを狙った店。

初めてこういう場所へ来たけれど、なんだかうずうずする。


そもそもなぜここへやってきたかと言うと、新菜さんへのチョコレートを買うためだった。

もともと誰とでも分け隔てなく接する彼女だが、唯一の女子同期ということもあり、私のことはけっこう気にかけてくれていると思う。

こんな、地味な私にさえ優しい。彼女は天使のようだ。


私たちの入社する数年前から会社では女子がチョコレートを配る習慣はなくなったが、2人で毎年チョコレートを交換している。


料理が苦手だから手作りとか無理!と新菜さんは毎回素敵なブランドチョコをくれた。

一方私はブランドとかよくわからないから、と毎年簡単なチョコクッキーを作って渡していたけれど、大人女子らしく、今年は新菜さんに似合うような可愛らしいチョコレートを買ってプレゼントしてみようかな。

リボンがかかったもの、綺麗な箱のもの、お酒の入ったもの、新菜さんにピッタリなものはどれだろう…。

ひと通り見て回って試食もしてみたが、どれもそれぞれに美味しくて迷ってしまう。


人混みと会場の広さにぐったりして、さっき来た時にもたれていた壁に再び体を預ける。


毎年女子たちは、誰かにあげるため、自分のご褒美のため、こんなにたくさんのチョコレートの中から選んでいるのか。


でも…と、しばし考える。


新菜さんは私が作るクッキーを毎年喜んでくれる。

それだけじゃない。私の家に来たときも、私の作るものは全部喜んで食べてくれる。


米大好きくんのことも思い出していた。


私、新菜さんにあげるものを選ぶためとか思ってここに来たつもりだけど、本当は違うのかも。


米田さん、また作って渡したら、食べてくれるだろうか。


宝の地図のごときイベントのマップをカバンにしまい、私は下りのエスカレーターへと向かった。



日曜日午後、私は今、バターを混ぜている。

この作業が一番キツい。

常温に戻したはずのバターは若干まだ硬く、混ぜて柔らかくするのはひと苦労だ。

卵を少しずつ加えながら混ぜる、砂糖も少しずつ加えながら混ぜる。

小麦粉も加えて混ぜたら生地を大きな塊にして冷蔵庫で休ませる。


メッセージアプリを開き、返信のタイミングを見計らっていた米田さんからのメッセージを開く。


「決算お疲れ様でした。月曜よかったら飯行きませんか。」


月曜はバレンタイン前日だ。

土日の間にチョコを作って月曜に渡す…うん、気合い入れてわざわざバレンタインの日に合わせてないですよ感が出て良いかもしれない。


「ありがとうございます。ぜひ行きましょう。食べたいものありますか?」


返事はすぐに来た。


「ハンバーグ食いたいです。職場の近くのうまい店知ってるんで、よかったらそこ予約します。」

「了解です。よろしくお願いします。」


スマホの画面を閉じ、ぴょんとその場で踵を上げた。


冷えきった生地を取り出し、押し広げて型を取る。

今年は初めて、ハートの形の抜き型を使う。


オーブンで焼いてできあがり。


できたてを一口。

できたてのクッキーは少しホロッとしている。

冷めていく間に、どうか美味しくなりますように。



次の日、約束の18時に会社ビルのエントランスへ行くと、すでに米田さんの姿があった。


「ごめん、お待たせしました。」

「ううん、俺が上がるの早かったから。」


ビルの前の照明のせいで、夜なのに米田さんの白い息がはっきり見えた。

ひとりでここで待っていた日のことを思い出した。


歩き出した私の右手には小さな紙袋。

中には茶色いハートが5つ入っている。


昼休みに外回りから帰ってきていた新菜さんにもクッキーを渡せた。

私からのチョコは明日渡すね!といつも通りの笑顔で言われた。

久しぶりに飲みに行こうと言われたけれど先約があることを伝えると

「もしかして…米田くんと?」

と聞かれた。

なんて勘が鋭いのだろう。

慌てた様子の私に、楽しんできてねと笑顔で言う彼女。

私が今後恋愛の相談をするとしたらきっと新菜さんかもしれないな。


「なんか、こうやって二人で喋るの久しぶり。もしかして正月以来?」

私の歩調に合わせる米田さんが言う。


「そうだね。」

お店で改めて渡すのは少し恥ずかしい。

心臓がドクドクとうるさいし、さっさと渡してしまおう。うん。


「米田くんこれ!」

声が、少し裏返る。

私が立ち止まるのと同時に米田さんも立ち止まる。

「えっと…最近いろいろお世話になってるし、ちょうど明日バレンタインだな〜と思って。ほら、うちの会社ってチョコ配らないけど、同期だし、軽く受け取ってくれれば…。」


長い言い訳のようなセリフだが、早口で小声で、精一杯の言葉だった。

道行く何人かがチラッとこちらを見遣る。

恥ずかしい。

むしろ、お店で渡した方が良かったのでは…。


米田さんは私が差し出した袋を見つめた。

そして、私の手を自分の手で包み込んだ。


「手、冷たい。」

今度は私を見つめた。


「ありがとう。嬉しい、です。」


米田さんの手は大きくて温かかった。

触れたのはほんの数秒だったけれど、私の手に、彼の手の熱が移った気がした。


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