【ひとり風邪】
朝から嫌な予感はしていた。
起床時いつもより身体が重く鼻も詰まっていた。
PCに向かい仕事をしていると視界がぼやけ、首から上に熱がこもった。
加えて足元の冷えるオフィスでは膝掛けを駆使しても寒気がする。冷房が効いているのではないかと思うほど、空調の風は冷ややかだ。
額に手をやると、明らかに普段の体温とかけ離れて熱かった。
「貝原さん、すみません…。」
コーヒーを飲む部長に話しかける。
「熱があるので、午後お休みをいただいてもよろしいでしょうか。」
部長は目を見開いた。
「本当に?それなら昼からと言わず今すぐ帰りなよ。」
「そうします、すみません。」
ヨロヨロと力なく自分の席へ戻る。
「支払いの処理は私がやっておくから。」
「ありがとうございます。」
頼もしい田中さんのお大事に、という声に見送られ、オフィスを後にした。
熱を出すなんて何年ぶりだろうと振り返りながら、人の少ない電車に揺られる。
終業式で学校が早く終わったらしい私立中学校の制服を着た子たちが乗っている。
もうそろそろ今年も終わる。
土日はクリスマスだが、楽しむ余裕はなさそうだ。
最寄り駅に着き、駅前のスーパーで買い物しようと手持ちを調べたところ、そもそも財布を家に忘れていることに気がついた。
冷蔵庫の中を思い出す…。
熱がある時でもしんどくなく食べられるものは豆腐と卵くらいだろうか。
冷凍うどんも1つ残っている。
仕方なく帰路に着く。
家の扉を開けると、外よりは寒くない室内に少しほっとする。
やかんに残っている水をコップに入れゆっくり飲んだ。
寒気はするのに服の中は汗びっしょり。朝ベッドに放っておいたパジャマへと着替える。
ただの風邪だ。寝れば治る。
不治の病である「病院嫌い」は今回も例外なくあらわれ、私をベッドへと引きずり込んだ。
冷たい布団の中で、重たくなったまぶたをゆっくりと閉じた。
夢を見た。
朝に目が覚めた私は布団から出てキッチンに立ち、雪で作ったかき氷を食べていた。
夢の中とは都合がいいもので、雪のかき氷なのに暖かい季節のようだった。
みぞれ味の透明なシロップがかかったかき氷は、隠し味に柚子の味がする。
家のチャイムが鳴り玄関に向かう。
ドアを開けるところで、夢から醒めた。
また汗をかいてパジャマはびしょびしょになったので、新しいシャツに着替える。
外はすっかり暗くなっていたのでカーテンを閉めた。
幸いなことに少し食欲があるので、卵とじうどんでも作るか、と冷蔵庫を確認。
見ると卵はあったものの、肝心のうどんが見当たらない。
ああ…昨日の夜に使ってしまったんだった。
財布は忘れ、うどんもなく、くたくたになった心。
うなだれていると、夢と同じく家のチャイムが鳴った。
インターホンの画面には不織布マスクをつけた田中さんの姿。
ドアを開けると、マスク越しでもわかる笑顔で手を振っていた。
「飯島ちゃん、ごめんね寝てた?これ、差し入れ。冷たいものもあるから冷凍庫に入れてね。」
コンビニの大きな袋を手渡してくる。
仕事終わりにわざわざ訪ねてくれる、世話好きで優しい人だ。
「ありがとうございます。ちょうど今起きたところで。」
「よく寝たね〜。栄養摂って、せっかくのクリスマスだけどちゃんと寝てね。」
「はい。」
また笑顔で手を振り、田中さんは帰っていった。
袋の中を見ると、レトルトのおかゆ、ペットボトルのお茶、アイスが入っている。
その場で田中さんに向けて合掌した。
助かった、これで一晩飢えずに済む…。
袋には、他に柚子湯の素が1箱入っていて、薄いピンク色のふせんメモがくっついていた。
メモを見た瞬間、胸がしわっとした。
「メリークリスマス、お大事に。米田」
オフィスで今日は一度も目が合わなかった米田さん。
特に連絡は無かったが、こういうことをされると簡単に好きになってしまいそうになるのは、風邪の時の心細さのせいだ。
やかんの水を入れ直し、沸かす。
小鍋で沸騰させた湯におかゆのレトルトパウチを投入。
3分経ってから、丼に温まったおかゆを開ける。
冷蔵庫の中に見つけた梅干しをひとつのせる。
シュンシュン鳴き出したやかんの火を止め、柚子湯の素を入れたマグカップに湯を注ぐ。
今日はベッドの上で食事をしてもいいことにする。
いつもならしないことをしてもいい、風邪の時にはね。
丼とマグカップを乗せたお盆を慎重にベッドの方へ運んだ。
丼を持ち上げ、レンゲで梅干しをほぐす。
ゆらゆらと湯気が揺れるおかゆとともに口に入れると、口の中にあたたかさと甘さ、そしてすっきりする塩気が広がった。
ゆっくり食べると、おなかにけっこうたまった。
食べている間に無駄な熱さを逃がした柚子湯をずずっとすする。
瞬間、ぽかぽかと温まる感じがした。
柚子って酸っぱくなくて甘すぎなくて、優しい味がするな。
風邪で弱った心の時は、少しの優しさで涙が出そうなほど嬉しくなるものだ。
柚子湯の箱にくっついた小さなふせんを剥がし、手帳の今日の日付のマスに貼り付けた。
これを飲むたびに米田さんのことを思い出すのかもしれないと思うと、今すぐ会いたいような、愛しい気持ちになるのだった。
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