【ひとり銭湯】
午後3時過ぎ、決算短信と四半期報告書の提出作業が終わった。
内容が間違っていれば提出した後に訂正を出さなければいけないが、今回は大丈夫そうだ。
開示資料の作成から提出まで半月ほど、気を張る作業でさすがに疲れた。
この業務の担当になって1年経ったが未だに慣れないことばかりだ。
「貝原さん、短信と四半報の配信作業終わりました。」
部長に声をかける。
「は〜い、お疲れ様。」
いつも通りのおっとりした口調で部長は答えた。
背中と腕を伸ばし、ストレッチ。腰がぽきっと音を鳴らす。
そそくさと帰り支度を始める。
私のルーティンになってきたが、決算発表の日は終わり次第早上がりし、次の日は休みにする。
今回もその予定を早々に社内スケジュールに入れていた。
この早上がりと休みで、フレックス勤務で溜まっていた残業を消しにかかる(消えるのは微々たる時間だが)。
今日は木曜日のため、明日から三連休だ。
「お先に失礼します。」
さっと立ち上がると、部の他の人々はぱらぱらとお疲れ様の言葉を返してくれた。
今日のこの後の予定は決めている。
初めて、家の近くの銭湯に行くことにしたのだ。
ずっと前から気になっていた銭湯ではあったが、駅へ向かう道と逆方向だし土日は開いていないしで、なかなか行く機会を作れなかった。
電車から降り立ち、自分の家の方へ向かう。
明るい時間からこの道を歩くのは何だか嬉しい。
秋の陽の光が柔らかく私の頬に当たる。
はやる気持ちが私の歩みを早める。
自分の家の前を素通りし、商店街を通り抜け、やがて小さな銭湯へとたどり着いた。
銭湯の外観は地図アプリに載っている画像を見て知っていたが、写真で見るよりも建物自体は小さく感じた。
こじんまりとした入口、ヒビの入った壁、鈍い銀色の煙突が長く伸び煙が出ている。
外見は古き良き銭湯のようだが、中が現代チックだったら少し拍子抜けしてしまうかも…。
いや、とにかく入ってみよう。
今日のために持ってきた着替えやタオルを入れたバッグをぎゅっと掴み、鼻息をふんと鳴らして入口の大きな引き戸を開けた。
まず目に飛び込んだのは、大きな暖簾。
入口を入ってすぐ正面の左側には「女湯」、右側には「男湯」と書かれた、それぞれ赤・青の暖簾が垂れ下がっていた。
左右の壁には靴箱が並んでいる。
大きな木の板が靴箱一つひとつに挿さっている。
そのひとつに靴を入れ、21と書かれた板を抜く。
女湯暖簾に隠れた扉を開けると、古びた風呂屋の内装が現れた。
壁に高く取り付けられた昭和製の扇風機、化粧台の鏡の横にはコイン式のドライヤー、瓶が入った小さな冷蔵庫。
入ってすぐ右にある番台には70代くらいのおばあちゃんが座っていて、無愛想に「いらっしゃい」と言いながら新聞を広げていた。
小さいシャンプーとボディソープを1つずつ番台で買う。
「はい、80円おつりね。」
無愛想なまま、小銭を渡してきた。
荷物入れの籠にバッグと脱いだ服を入れていく。
何年も着続けている下着も入れる。
朗らかな笑い声とともに出てきた3人組のおばさま達と入れ替わりで風呂場へ向かった。
銭湯の小さな正面とは対照的に、風呂場は天井も高く広々としている。
湯船に浸かっている人が1人いるだけで風呂場はがらんとしており、私が腰掛けや風呂桶を動かす音が響いた。
赤と青の蛇口が並ぶ。
赤い方をひねると出てくるお湯はかなり熱いため、水の出る青い方もひねって調節する。
泡立ちの悪いシャンプーで髪を洗い、次いで体も洗い、桶いっぱいに入れたお湯を頭からかぶる。
くもりガラスから差し込む光が湯気を照らす。私の身体の水滴もキラキラと弾ける。
滑らないように気をつけながら浴槽へと向かった。
熱めの湯船に右脚からゆっくり入る。
おへそのあたりまで浸かる段に座り、上半身にお湯をかける。
唯一入浴中だった女性が、顔を真っ赤にして湯船から出て行った。
もう1段深く浸かり、遠慮なく腕と脚を伸ばし、顎の下までたっぷりと浸かる。
ゆったり流れる時間が眠気を誘う。
冷えていた指先に血が通いピリピリと痺れる。
思わず「あ〜」と声が漏れる。
早い時間にお風呂に入るのは、なんて贅沢な気持ちになる行為だろうか。
ひと仕事終えた安堵、まだ他の人が働いている中リラックスする優越感。
温かい、お風呂。
「あー…しあわせ」
足の指先を揃えお湯から出すと、ぴちょんと水音が鳴った。
多幸感のお湯に包まれ、疲れがじわじわと流れ出ていく感覚だ。
普段家ではシャワーで済ませるのもあって、大きなお風呂で手脚が伸ばせるのが嬉しい。
5分も浸かればのぼせてしまう。
でも今日は、あと少しだけ入っていたいな。
風呂上がりのことを考える。
冷蔵庫に入っていたミルク飲料、コーヒーとフルーツどっちにしようかな。
商店街で、熱々のコロッケを買って帰ろうかな。
家でビール飲もうかな。
結局、
連絡先知らないし来週にしよう。
私ったらまた浮かれてる。
たぶん、お風呂でのぼせているせいだ。
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