【ひとり定食・後編】
「じゃあ。」
エレベーターの扉が開き、短く挨拶をして米田さんはまっすぐオフィスへ向かっていった。
「うん、ありがとう、いろいろ。」
振り返らない米田さんの背中に言った。
「いろいろ?」
隣のエレベーターから出てきた田中さんが背後から声をかけてきた。
「朝から何いちゃついてるの〜。」
ニコニコしながら私の二の腕を人差し指でつついてくる。
「おはようございます。やだもう、そんなんじゃないですよ。」
「あらそう?」
二人で更衣室へと向かいながら田中さんは「そうそう」と話し始めた。
「金曜は代わりに出社してもらっちゃってごめんね。ていうか大丈夫?貧血?私これ、引き出しに常備してるからあげるよ。」
気配り屋の田中さんは、顔色の悪い私を見るなりバッグから鉄分ドリンクを取り出した。ありがたく受け取る。
「ありがとうございます。お子さんのお熱は大丈夫ですか?」
「うん、もうすっかり元気。でもかわりに今度は旦那が熱出ちゃってね〜。帰ったら看病だわ。」
「それは…大変ですね。」
「いつも頑張ってるから、神様が休めって言ってくれてるのねきっと。」
うふふと笑いながら田中さんは言った。
田中さんのこういう考え方も、旦那さんを大好きなところも、ショートヘアが似合うところも、仕事で頼りになるところも、とても好きだ。
私が男ならこういう人を奥さんにしたい。
体調が戻ったおかげで午前の仕事が捗った。
決算の作業はまだまだあるが、通常業務が午前中に片付いたおかげで午後に集中してできそうだ。
月曜日は問い合わせなどのメールや郵便物が溜まっているが、それらを効率よく捌いた自分にスタンディングオベーションを贈りたい気持ちだ。
米田さんからチャットが来ていた。
「体調は大丈夫ですか」
普段話す時はタメ口なのにチャットで敬語を使ってくるのって、ずるい。
「大丈夫です。心配してくれてありがとうございます。」
こちらも敬語で返す。
勝手に浮かれて恥ずかしくなり、すっかり冷たくなった米田さんからもらったお茶の残りを勢いよく飲み干す。
ちらりとPCのすみに目をやると時計は12時1分。
財布を手にゆっくり立ち上がる。
今朝は弁当を詰める余裕がなかったので、たまに行くいつもの店に食べに行くことにする。
その店は会社から歩いて5分ほどのところにある。
今日は客が少なめで並ぶことなくすぐに店に入ることができた。
小さくて古い定食屋。こういう店が何よりも好きで落ち着く。
お出汁のにおい、食器の音、数人で来ている人たちの話し声、心地よい音たちに耳を預けながらスマホを開いた。
「決算終わった後の同期とのごはん、どこいこ」
SNSに短い投稿。
米田さんからごはんに誘われたのは意外だった。
最後に食事をしたのは、ずいぶん前に残業で帰りが一緒になった時だっただろうか。
食べることが好きだから飲み会は好きだと言っていた気がする。
このように記憶が曖昧なのは、それだけ「同期」だということ以外にあまり接点がないからだ。
米田さんはあれから、卵焼きを焼いてみたりしたのかな。
ごはんに行った時に聞いてみよう。
一緒に食事をする時の話題を考えるなんて、やだな、私、なぜかまた浮かれている。
「ご注文お決まりですか?」
店員の女性が注文を受けにやってきた。
「日替わり定食で。」
メニュー表を指さす。女性はハイと短く言い、さっさと厨房へ向かい注文を通す。
ここの日替わり定食の副菜はほぼ毎回揚げだし豆腐で、ランチタイムに出すには珍しいのではないだろうかと思う。
他のおかずももちろん美味しいが、この揚げだし豆腐のために来ていると言っても過言ではなかった。
着席とともに出されていた水を飲む。
座っているカウンターの奥では、ご主人と奥さんが手際よく定食を用意する。
お出汁のにおいが食欲を刺激する。
5分ほどで待ちに待った定食がやってきた。
ごはんに味噌汁、サワラの焼き、そして期待通り揚げだし豆腐ものっている。
「いただきます」
手を合わせ、勢いよく箸を割る。
まずは味噌汁から。あおさがたっぷり入った温かい味噌汁、たまらない。
続いてサワラ。ふっくらといい焼き加減でごはんが進む。
お楽しみの揚げだし豆腐。衣のさくっとした部分とお出汁に染みた部分を半分ずつ楽しめるのが最高。お出汁は薄味で、生姜がきいている。居酒屋に揚げだし豆腐があると必ず注文するほど好きだ。
朝食を抜いた分だけ、温かい定食がじわじわと身体に染み渡っていく。
氷のように冷たかった私の手も、指先までジンジンと温まっていった。
揚げだし豆腐のお出汁を少しだけすすり、ハァと満足のため息を吐く。脳みそに直接お出汁が染みるようだ。
朝死んでいた私がようやっと生き返った感じ。
お勘定を終え、肌寒い外へと再び出る。
雨はすっかり止み、太陽の光が水たまりに反射していた。
店の前には人が3人ほど並んでいた。それを横目に、オフィスへ戻る道を行く。
大きく両手を空へ伸ばした。
たまにでいいが、外へ食べに行くのは弁当と違った良さがあり気分転換にもなる。
職場の女子は数人でまとまってランチに行く人が多いが、私の場合、時間が決まっているランチタイムに誰かと話しながら食事をするのは苦手だ。
さあ、午後も頑張るとするか。
前から誰も歩いてこないのを確認してから、一歩だけスキップをした。
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