【ひとり映画】
カタカタ…カチッ
業務メールを送信し、デスクを片付け始める。
定時まであと5分。
今日は残業せずにさっさと退勤する予定だ。
プルルルルルル
しかし不思議なことに仕事というものは、こうして早く帰りたい時に限って電話が鳴るものだった。
今日は我が部署はほとんどの人が在宅勤務で、今は私しか席にいない。
仕方なく電話を取る。
「K商事でございます。」
早口になってなかったかしら。
「その声は飯島ちゃんだね。今日は在宅じゃなかったの?」
声の主は東京本社営業部の塩塚部長だった。
社内スケジュールに「在宅勤務9:00-17:30」と予定を入れたままだったことを思い出した。
「お疲れ様です。その予定だったんですが、田中さんが在宅に切り替えると聞いたので代わりに業務を…」
「あ〜!田中ちゃんの代わりか。田中ちゃん子どもちっちゃいし大変だろうね〜。飯島ちゃんみたいな子がいてくれると助かるよね。」
「ハハ…」
早く要件を言え。
「こっちも風邪が流行り出してさ〜。飯島ちゃんも気も付けてね。あ、それで経費の精算のことで聞きたいことあるんだけど。」
「はい、どのような…?」
「領収書失くしちゃったんだけどこれどうしたらいいかな?」
「あー…会社としては、払わないというわけにもいきませんので、内容がわかる明細など出してもらえたら大丈夫です。」
「そうか〜。いや、もう一度探してはみるんだけどね。」
1ヶ月前にも同じ会話をしたことを塩塚部長は忘れているのだろうけど。
時間は17時35分。
定時過ぎたんですけど、切っていいですか?
「来週そっちで会議あるからお土産持ってくよ。それじゃ、お疲れ様。」
「ありがとうございます。失礼いたします。」
帰る。もう帰るぞ。
受話器を優しく置いたあと、素早く帰り支度をする。
「お先に失礼します。」
ちょうどトイレから戻ってきた部長に挨拶し、更衣室へ向かった。
今日は久しぶりに映画に行く予定だ。
職場から歩いて行ける距離の小さい映画館。
気になっていた作品が今日から公開で、前売り券ももう買ってある。
そうしたワクワクした気持ちの金曜日、よりによって塩塚から電話がくるなんて。
塩塚は数年前までこちらの支社の営業部にいた。
仕事ができるし話も面白い。
だが、飯島ちゃんだの田中ちゃんだの、自分より若い女子社員を全員ちゃん付けで呼ぶところが私は苦手だった。
大して話したこともないのに、飲み会の席で隣になった時肩を組まれたこともある。
当時入社してまだ2、3年だった私はかなり参っていたが、今では「そういう人だ」と諦めることを覚えた。
来週こちらに来ると言っていたが、その時はニコニコ出迎えるとする。
テレビCMで何度も目にするようなメジャーなものは上映していないけれど、小さい映画館は金曜の夜でも人がまばらで、この雰囲気が私は好きだった。
おなかがすいたのでフードコーナーでカフェラテとサンドイッチを買う。
あと数分で劇場への案内が始まるだろう。
同じ部の田中さんは今日、子どもが熱を出したそうだ。
前回は旦那さんが休んでくれたため今回は自分が面倒を見るとのことで、朝に部のチャットで連絡が来た。
飯島ちゃんみたいな子がいてくれると助かるよね。
塩塚の言葉を思い出す。
私みたいな子、とは、結婚していない一人暮らしで融通の効く人間ということだろう。
塩塚め。
舌打ちしたい気持ちを抑えてカフェラテを飲む。
心の中で静かに呪っておく。
劇場の席につく。
100人ほど入りそうな座席には、私以外に5人しか座っていない。
チケット代が2,000円になった映画は今や高級な趣味と言ってもいいだろう。
学生の頃にたくさん映画を観たが、時間があの頃ほどはない上にチケット代も相まって、映画を観に来るのは数ヶ月に一度ほどになってしまった。
予告に続き、本編が始まった。
別の映画を観に行った際に予告で観て知っていたが、内容は外国のある家族がどこかへ向かうためドライブをしているというもの。
どこへ向かうのか、目的は何なのか、予告では全くわからなかったし、本編の中でもはっきり語られることはなかった。
だが4人家族の長男が何らかの理由で国を出るためにどこかへ向かっていた。
まだ小さい次男には「お兄ちゃんは結婚するのよ」と母親は嘘をつく。
長男が外国へ亡命する話であった。
恋愛モノやそれ以外でも、海外の映画は男女のベッドシーンがあることが多く、
「なぜわざわざこのシーンを入れた?」
と謎に思うこともあるため、こういう淡々と進むシリアスで、でもたまにコミカルさもある渋い映画はかなり好きだった
スクリーンに見入りながら手に持つサンドイッチをゆっくりと食べた。
パンは薄く、シャキシャキのレタスと輪切りのゆで卵が入っていて美味しい。
映画に夢中になりながら、終わるまでにサンドイッチとカフェラテをバランス良く食べて飲まなきゃ、と頭の中では冷静に考えているものだ。
ポップコーンなんて買った時には食べきることに意識がどうしても行ってしまう。
やがて上映が終わった。
すぐに係員が静かに退場を促すので、荷物を持ち立ち上がる。
こんなふうに、ひとりで映画に行き、ひとりで飲みにも行き、ひとりで何かをするのが好きなフリをしているだけなのだろうか。
でもとりあえず、ひとりでも映画は虚しい気持ちにならない。
観ている時は誰しも「ひとり」だし、こうして終わった後にひとりで余韻に浸り、劇中の場面を思い出しては考え事をするのが気持ちいい。
20時ちょうどだった。
さて、飲んで帰るか、帰ってシャワーを浴びるか、まだまだ金曜日は長い。
駅に向かおうと進行方向を変えると、米大好きくん、もとい
今まで仕事だったのか?
しかしよく見ると、隣に美山さんの姿もあった。
二人で食事でもしていたのかしら。
私がひとりで、ひとりの世界で過ごしている間に、世の中の男女はこうやってキラキラした時間を過ごすのだ。
明るく笑う美山さん。
いつも通りほぼ無表情だが顔の良い米田さん。
絵になる男女だ。
ひとりの時間が好き。
でも、こういう時に、少し劣等感に似た気持ちを感じるのは何故だろう。
自分の服装を見る。濃いグレーのスラックスに黒のニット。
美山さんが着ているワインレッドの可愛らしいワンピースとは全然違う。
二人が駅の入口へ向かうのを見送り、私は方向をまた変え、隣の駅まで歩き出した。
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