13

 私は脳内から勝手に流れ出した伝達物質を必死できとめて言葉を止めた。閉じかけた瞼に無理やり筋力を集中させ眼球を動かすと、目の前の男の顔面を凝視する。

 

 今、なにが起きた……?

 

「そうでしたそうでした、ラピスラズリはトルコ石なんかと同じ十二月の誕生石だ。五月は、えっと。あれ、何でしたっけ」

「……」

「あー、あれだ。五月はエメラルドでしたね。愛の石だ」

「……黙れ」

「同じ愛でもルビーのように真っ赤な情熱というより、エメラルドは愛を育み長続きさせるための知性、忍耐力、優しさなんかを象徴するまさに浅倉さんにぴったりな」

「黙れ!!」

 

 声がひっくり返る。もはや動揺を隠すことは不可能だった。

 

「……なんで、そんなことを訊くんだよ」

「おや、いけませんか」

「質問に答えろ! なんでお前がそんなことを訊くんだ!」

「なんで? いやいや。流石に心当たりがあるでしょう。わたしが浅倉さんにこんな質問ができる理由なんて、たったひとつですよ」

 

 ありえない……その裏切りだけは、絶対。

 

樋井紫子ひのいゆかりこ。わたしがここに来たのは彼女に頼まれたからに他ありません」

 

 会話を始めた当初の明るい喋り方から一転、今や太くて低い宗胤の声色は、耳障り以外の何ものでもなかった。

 

 その口が、愛しの人の名を口にする。

 

 怒りと虚無が瞬時に増幅し、血液に混ざって身体中に巡っていくのがわかった。

 

「頼まれたって、何を」

「浅倉さんを救ってほしいと。浅倉潤は黒函くろはこ莉里りりを殺していないし、その前に起きた事件にも、世間が認知している事情とは大きく異なる事実がある。樋井ひのいさんはそう仰っていました」

「その前に起きた事件?」

「あなたが犯したと言われているもう一つの殺人です。その被害者である木村礼人きむられいとさんのご遺体は、あなたの住んでいたアパート近くの空き地に埋められていた」

 

 木村礼人。その名を聞いても、私はすぐに当人の顔を思い出せなかった。現状私の脳内は樋井紫子の顔貌で埋め尽くされ、彼女へと叫び問いたい思いで満たされてしまっている。

 

「この部屋でわたしと向き合う覚悟を決められたとき、浅倉さんは『三人殺した』そう言いました。一人目はご自身の父、二人目は黒函くろはこ莉里りり。その残るもう一人の事件を、最後にわたしにお話しして頂きたいのです」

「……」

「もう、これで本当に最後です。その話が終わればすぐにでも、あなたをこの部屋から出して差し上げます。約束します。浅倉さんが望む形の死を、すぐにでも」

「だめだ」

 

 絞り出した声は焦りと恐怖を含んで、徐々に大きくなる

 

「……今のまま死刑になるわけにはいかない。お前と紫子ゆかりこの関係はなんだ。どうして知り合った? なにを聞かされた!? 鳳蝶アゲハさまは今どこでなにをしている! 前田清玄まえだきよはるを今すぐこの場に連れてこい!!」

 

 私は目の前のテーブルを思い切り両手で叩いた。空のカップは一瞬宙に浮き、バランスを崩して倒れるとゆっくりと転がってやがて、テーブルから落下する。

 

「刑務官はなにをしているんだ。こんなに騒がしく叫んでいるのに何も言ってこない、部屋の中を確認しようとドアノブを握ることもない、気配すらない! おかしいだろう! 思えば独房からこの部屋までは随分歩かされた。目隠しをされ、曲がり角をなんどもなんども!」

「落ち着いてください。どうか、冷静に」

「よく言うよ。あんたが、紫子ゆかりこの名前を出したりするから……と、ゆかりちゃんの、二人だけの世界にずけずけと」

「分かりました。それなら木村礼人さんの事件はわたしが振り返ります。浅倉さんの代わりに」

「勝手にすればいい。僕はもう、なにも喋らないぞ」

 

 剥がれた仮面を取り戻す術はない。十五年……人生のすべてを懸けて完結しようとしていた物語が、途端に塵となって弾け飛んだ、そんな思いだった。

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