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 前田くんはふっと鼻から息を抜いて笑うと前髪をかきあげます。どうやらこの仕草は彼の癖のようでした。

 

鳳蝶アゲハさまはなんでもご存じだよ。浅倉くんがこれまでしてきたこと、犯した罪も何もかも。実はさ、僕にも罪があったんだよ。まあ、きみの殺人ほど重罪ではないけどね』

 

 前田くんの口ぶりは少しばかり小癪でしたが、私は前田くんという人を多少なりとも認めていたので受け流します。というのも、前田くんは私の過去を知った上で尚、恐怖や同情を態度に表さなかったからです。

 その頃の私にとって、それは重要な事でした。

 

『前田くんの罪って?』

『それは追々。今はとにかく、きみを鳳蝶アゲハさまにお目通しすることが先だから。行くよ、僕について来て』

 

 前田くんは部屋の中央にそびえる螺旋階段の手前で一礼すると、背筋を伸ばして階段を上って行きます。頭の位置がほぼ変わらない、ブリキのおもちゃのような動作で淡々と先をいく前田くんは、一八〇センチ程の長身でありながら細身で、歩く姿は誰かに操られているのではないかと思うほどに奇妙でした。そして同時に思うのです。

 

 

 こんな人は同じ学校にはいなかった、と。

 

 

 階段を上り切り、空中に浮かぶ小さな橋を渡ると、金色の装飾が施された重厚そうな扉の前で前田くんは立ち止まりました。

 

鳳蝶アゲハさま。浅倉潤をお連れいたしました』

 

 前田くんが言えば、瞬時に扉の鍵の解鍵音が鳴ります。

 

『僕が伝えた注意を忘れないように。いいね?』

 

 扉の取手を握り、奥へと押す前田くん。扉は想像したより軽そうで、開いた瞬間もわりと甘ったるい匂いが顔面を撫でました。

 室内では二つの加湿器が白い蒸気をあげていて、洞窟のような湿った感じを覚えます。左右に置かれた観葉植物は部屋の真ん中に向かってこうべを垂れるようにしなっており、壁にはいくつもの蝶の標本ががくに入った状態で飾られていました。

 その部屋の最奥。高い背もたれの椅子に鎮座する女性は、白いレースのハイネックノースリーブにドレープがふんだんに入ったワインレッドのロングスカートを身に纏っています。

 

『ようこそ浅倉潤さん。わたしが叶韻蝶会きょういんちょうかいの祖、鳳蝶アゲハです』

 

 黒いフェイスベールで鼻から下を隠した鳳蝶アゲハさまを、私は目線を落としながらぼんやりと目の端っこで捉えました。顔を直視しないこと、その前田くんの教えを守ります。

 

『急なお呼び立てにお応えくださり、感謝します。今日はあなたに幾つか訊きたいことがあるのです。よいですか』

『はい』

『不躾だとは思いますが時をいておりますので単刀直入に申し上げます。三年前あなたが事件を起こした日、あなたの住んでいたアパートの隣の部屋には女の子が居たはずなのです。覚えていませんか?』

 

 女の子。鳳蝶アゲハさまの問いを受け、私は頭をフル回転させました。しかしそのような記憶は私にはありません。

 

『すみません。覚えていません』

『そう、ですか』

『あの』

 

 私が会話を繋ごうと口を開けば、前田くんがそれを制します。鳳蝶アゲハさまの問いが優先だ、前田くんはそう言わんばかりに横目で私を睨んでいました。

 

『では次の質問をします。少年院を退院してから数ヶ月、浅倉さんは今の生活に満足していますか』

『はい』

『本当に?』

『本当です』

『肩身の狭い思いをしているのではないですか』

 

 この時やっと、私は前田くんの誘いを受けて叶韻蝶会きょういんちょうかいを訪れたことを後悔しました。最初からこうなることは想定していた。名刺の不可思議な称号や前田くんの言動から、この場所が目の前の鳳蝶アゲハさんという人を中心に信仰を深める社会集団だということは分かっていたはずでした。

 私はなにかの集団に加わる気はなかった。それでも前田くんについて来てしまったのは、やはり彼の纏う雰囲気が私を拒絶しなかったからに他ありませんでした。

 どう回避しよう、そう言い訳を考えているうちに気づけば、鳳蝶アゲハさまは椅子から立ち上がって私の目の前まで近づいて来ていたのです。

 

『わたし達と生活を共にしませんか。我々はあなたを受け入れる。蝶だって、醜い幼虫からじっとさなぎを耐え忍ぶからこそ、こうして美しい姿に生まれ変われるのです』

 

 鳳蝶アゲハさまは壁に飾られている標本を手で示しました。

 

『あなたは耐えた。蝶になる素質が十分に備わっているのですよ、じゅん

 

 そう名を呼ばれて、伏目に視線を落としていた私の瞳孔は揺れました。

 潤だなんて名前を呼ばれたのは久しぶりすぎて、私は決して似ても似つかない母の声に鳳蝶アゲハさまの声色を重ねてしまったのです。

 

 ——それは、幸せを求める欲が私に生まれた瞬間でした。

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