最初の殺人
1
自己紹介は苦手でした。
名前は
自宅は六畳一間のアパート。アパートの名は忘れてしまいましたが、部屋番号はたしか一〇二号室でした。
くたびれて波打つ畳の敷かれたその部屋は、私が刑務所で約六年間過ごした独房と大差ないほど殺風景で、覚えているのはガラス戸から差し込む西陽が逆光して陰る母の後ろ姿と、物心着く頃にはすでに存在していた焦茶色の大袈裟な化粧台。そこに置かれたパフやアイシャドウを駆使して、鏡に映る母の顔は色濃く艶を重ねていくのです。
私が生まれるずっと前から、母は地元のスナックで働いていました。父ともお店で知り合いました。結婚して私が生まれると、母は自分の誕生日と私の誕生日をうまく客前で使い分け、年に二回バースデーイベントを行なっていたのです。
つまり、私には自分の誕生日を母と過ごした記憶はありません。それは別に良いのです。ですが私の記憶には、色濃く刻まれて忘れることのできない誕生日が一度だけ存在します。
平成二十一年、五月八日。
私が十五歳になるその日、父は母を撲殺しました。
覚えているのはやはり、西陽に陰る母の背中。畳にうつ伏せで横たわる母は出勤用の煌びやかな服を父に剥ぎ取られ、光沢のある薄桃色のキャミソール紐を肩から落とした無惨な姿でした。
骨張った肩から伸びる乳白色の細い腕と脚には無数の引っ掻き傷と打撲の跡。こちらを向く母の顔面は赤紫に腫れ上がり、左鼻から頬に流れた鼻血が干上がった地面のようにパリパリに固まっていました。目は、開いたまま。
涙は出ませんでした。このとき、私は悲しみや恐怖よりも自身の生活環境が一変する緊張感で胸がいっぱいだったのだと思います。
それはまるで小学校から中学校に進級を果たす時のような、初恋の女の子が見違えた姿で同窓会に現れるような、不安より期待値が若干上回る心持ちでした。それくらい、当時十五歳の私は日常にうんざりしていたのです。
すでに息絶えている母の腹を蹴り続ける父。涙と鼻水でぐしゃぐしゃに顔面を汚し、声にもならない呻きを上げ続けるそんな父の足元には、小ぶりな白い箱が落ちていました。表面に書かれた文字を見て、私はそれがなんなのかを直ぐに理解します。母に夢中な父に気づかれないよう、私はその箱をそっと引き寄せて蓋を開けてみました。
スライド式の黄色い携帯電話。それは当時私が一番欲しがっていたものでした。
母と違って、父は私の誕生日に毎年プレゼントをくれました。カットケーキを一切れ買って、そこに一本の蝋燭を刺し、部屋の明かりを消して歌も歌いました。
昨年はゲーム機、その前は財布。中学生になったんだからと、ノーブランドでありながらも少し大人びた革製の財布だったことをよく覚えています。確認はしませんでしたが、その日も冷蔵庫にはケーキが入っていたのだと思います。
お父さん。そう話しかけても父は母を蹴ることをやめません。
ありがとう。そうお礼を言っても、父は私を振り返りませんでした。
苦しかった。何よりずっと父だと思っていた人が
そしてその瞬間、私の心の天秤に載せられた期待と不安のバランスは逆転しました。
母が居なくなれば、私は父と新たな世界に行るのだと期待していた。ですが残ったのは壊れた父と、その男をもう父とは呼べない現実があるだけでした。
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