第29話 痒い

 哲朗の皮膚には、正常な部分がなかった。全身がただれ、無数の発疹と引っ掻き傷に覆われていた。真新しい傷からは血がにじみ、膿が流れ出ていた。


「気持ち悪いだろう、俺の体」

 マントを元に戻しながら、哲朗は言った。

「最初は腕にぽつんと、小さい発疹が一つ。それがもう気が狂いそうなくらい痒くてさ、掻きむしっているうちに発疹が全身に広がって、今はこんな状態ってわけ」


 哲朗の目の奥に、切実なものを見た。自分は今、試されているのだと思った。異常な皮膚を前に、どんな反応をするのか。そこに嫌悪の色が含まれるかどうか。

 こんな体をした奴を、お前はまだ友達だと思えるか。

 そう声に出さず、哲朗は問いかけてきているのだった。


 望は無表情に「そうなんだ」とだけ言って黙った。哲朗は話を続けた。


「直接日光に当たると余計に痒くなるから、外出るときはいつもマントなんだ。普通の服だと、布が傷に擦れて痛いんだよ。こんな変な恰好でしか出歩けないなんて、最悪だよな。俺、学校もずっと休んでるんだ。週に二度ここへ診察に来る以外は、家に閉じこもってる」

「……それは、何かの病気? 原因は?」

「わからない」

「検査とかしたの?」

「したよ。それでもわからない。原因不明ってやつ? 今までたくさん病院も回ったし、薬も治療法も色々試したけど全然だめ。医者もお手上げ状態。診察もさ、精神的なケアが主な目的みたいなんだよね。症状がひどいときは痒くて痒くて、何も手につかないんだ」


 哲朗はマントの下から両手を突き出すと、寒さに震えるような仕草で擦り合わせた。

「一日中掻きむしって、そうすると爪の間にさ、びっしりと自分の皮膚が詰まるんだよ。異常だろ? 想像できる? 人間てさあ、体が痒いってだけで死にたくなったりするんだよ」


 いたたまれなくなって、望は俯いた。頭の中で様々な思いが浮かんでは消えていく。大変だね。辛かったね。いつでも話聞くよ。俺にできるのことがあったらなんでも言えよな。すべて、口に出せば陳腐なセリフにしかならない思いだ。


 でもさあ、と哲朗は話を続けた。思いのほか力強い声だった。

「俺はまだまだ負けるつもりないんだよ。夜中に突然死にたくなるときはあるけど、死なない。こんなところで人生諦めてたまるかよ。絶対この体治してさ、学校行って彼女作って遊びまくる。今までロスしたぶん取り返してみせる。そう考えて、毎日耐えてるんだ」


 はっとして、望は顔を上げた。

 哲朗と視線が合った。哲朗の目はとても澄んでいた。


「すげえな、哲朗……」

 もしもこの身に同じようなことが起きたとして、自分は哲朗ほど気力を保てないんじゃないか。自棄を起こして、周りに当たり散らすだろう。

「なんていうか、超冷静に自分を見てる? そんでメンタル激強?」


「まあ、こんなこと言えるのも今だけかもしれないけどね。さっき教えただろ、俺ちょっと不安定だって」

「でもすげえよ。めちゃくちゃタフじゃん。かっこいいわ哲朗」


 口に出してみて、これが本当に自分の伝えたい思いなのだと望は実感していた。哲朗と対するとき、遠慮や同情はいらない。


「そうだよ。俺は強いんだよ。今さら気づいたか。だからもう俺のこと馬鹿にするんじゃねえよ」

 哲朗は胸を張った直後、脱力したようにしゃがみこんだ。

「はあ……」


「え? 何? どうしたの?」

「いや、今だいぶかっこつけて言ったけど、実際この体見せるのすごい勇気いったんだよ。家族と医者以外に見せたことなかったから」

「ごめん」

「なんで謝るの?」

「いや、なんか体見せてもらっちゃって悪いなっていう……」

「いいよ、別に見て得するようなもんでもなかっただろ。むしろ不快だったんじゃねえか」

「そんなことないよ」


 即座に望は答えた。哲朗は意外そうに眉を上げた。


「何も知らないまま別れたら、きっと俺、後で誰かに哲朗のこと愚痴ってた。久しぶりに会った友達がすげえ感じ悪くてさあとか言って、哲朗の事情なんか知らないくせに、一方的に嫌な奴認定してたと思う。だから……打ち明けてもらえて良かった。ありがとう」


 その後、哲朗の診察が終わるのを待って、話をした。

 哲朗が原因不明の発疹と戦うようになったのは、小六の夏休みが終わり、引っ越しが済んだ後からだった。我慢できる程度の痒みは常にあり、それが不定期に、猛烈な痒みへと変化する。そうなったら、もう我を忘れて掻きむしるしかない。


「我慢がきかないんだ」と哲朗はこぼした。掻くのを我慢してしまえば、発狂するだろう。どんなに痒くても、体を掻きむしっていれば、自分を保っていられるのだという。


 激しい痒みに襲われるのは、だいたい一日に一時間から二時間の間。今まで家族や医者は哲朗が体を掻くのを阻止できないものかと、様々な方法を試みてきた。だがうまくいかなかった。いくら体を押さえつけようと、拘束しようと、哲朗は凄まじい力で抜け出して、自分の体に爪を立ててしまうのだった。


 望は時々、哲朗に会いに行くようになった。

 望の訪問を、哲朗の母はとても喜んでくれた。長く学校を欠席している哲朗には、家族以外に話し相手がいなかった。

「また遊びに来てね。ずっと哲朗と友達でいてちょうだいね」

 毎回帰り際、哲朗の母からはそう声をかけられた。


 望との再会を機に精神的な安定を得たように見えた哲朗だったが、ある日突然、自らの命を絶った。

 自室から見つかったノートには、走り書きが残されていた。

『もう痒いのは嫌だ。耐えられない』

 体が痒いというだけで、人は死ねるのだった。

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