第19話 腐った卵みたいな毎日

 ■ ■ ■


 玄関を開けて最初に目に飛びこんできたのは、黒色のランドセルだった。弟の健太郎のものだ。帰宅してすぐ廊下に放り出し、そのままなのだろう。蓋の金具が外れ、教科書やノートがこぼれ出ている。


「ったく、またかよ。これで何度目だ?」

 金子明充は苛立ちまじりにつぶやいた。

 弟にはこれまでにも、学校から帰ったら決められた場所にランドセルを片付けるよう、厳しく言い聞かせている。

 健太郎は小学六年生。近頃は兄に対する反発心が芽生えてきたらしく、扱いが難しくなった。明充が叱りつければ言い返し、それでもめげずに小言を繰り返せば、今度は逆に何も喋らなくなる。


「おい健太郎、ランドセル片付けろ! こんなとこに置きっぱなしにしたら邪魔だろうが!」

 通学靴を脱ぎながら、廊下の奥に向かって叫ぶ。

 健太郎の返事はない。思わず舌打ちが出る。


 通学靴からは、卵の腐ったような臭いがした。数日前から、通学路の途中に冷蔵庫が不法投棄されている。通り過ぎる際、冷蔵庫から漏れ出てきた液体で明充は靴先を汚した。

 今日中に洗わなけば、臭いが染みついてしまうかもしれない。外に干しておけば、朝までに乾くだろうか。


 居間のほうから、妹の泣き叫ぶ声が聞こえてくる。

「おい、何やってんだ!」

 慌てて駆けつけると、妹の桃香は床に突っ伏して声を上げていた。傍では、浩平と亮平が取っ組み合いを演じている。

 十中八九、桃香は双子の兄たちの悪ふざけに巻きこまれたに違いない。


「こらお前たち、家の中で暴れるな。うちは古いんだから、そのうちぶっ壊れて住めなくなっちゃうぞ」


 兄に怒鳴られ、浩平と亮平は互いにそっくりな顔を見合わせた。同じタイミングで目を伏せ、ごめんなさいと声を震わせる。

 素直でわかりやすい双子だが、やんちゃすぎるのが悩みの種だ。


「ほら桃香どうした? どこかぶつけたか? そうか、兄ちゃんたちの腕が当たっちゃったんだな」

 妹を抱き起こし、鼻水を拭いてやりながら明充はやさしく声をかけた。今年小学校に上がったばかりの桃香は泣き虫で、まだまだ手がかかる。


 明充は桃香を宥め、泣き止ませた。

 双子の兄たちは妹に謝った。

 三人が仲良く遊びはじめるのを見届けてから、明充は手早く、その辺に散らかった紙屑などを片付けた。その後で台所に向かう。

 弟たちに夕飯を食べさせなければ。

 今日は疲れているので、手早く炒飯でも作って終わりにしようと考える。確か、冷蔵庫にまだ卵が残っていたはずだ。


「なんだこりゃ」

 台所の惨状を見て、明充は愕然となった。

 ふつふつと怒りがこみ上げてくる。


 焦げたフライパンや汚れた器が、シンクに投げこまれていた。調理台の上には何かをこぼして拭き取ったような跡。指で触れると、かすかにべとつきを感じる。三角コーナーには卵の殻と黒焦げの物体が捨てられていた。

 健太郎の仕業か?

 大方、夕飯まで腹が持たず、卵でも焼いて食べようとしたのだろう。だがうまく焼けずに、諦めたのか。

 明充は二度目の舌打ちをすると、ひとまず怒りを鎮め、米を研ぎにかかった。


「兄ちゃん、お腹空いたー」

 居間から、浩平と亮平の声が重なって届く。


「ああ、ちょっと待ってろ」

 冷蔵庫の中を調べる。卵はすべてなくなっていた。くそっ、これじゃあ炒飯は作れない。何か別の材料を使って、おかずになるものを作らなければ。すぐさま野菜室を覗く。


 亮平が台所までやって来て「ねえ、炒飯食べたい」と呑気な顔で言った。


「残念、卵がないから炒飯できないよ」

「えー、じゃあ今日のごはん何?」

「野菜炒めかな」

「ちぇっ、また野菜炒めか」


 亮平が生意気に唇を尖らせる。それでも食事を作れば、毎回うまそうに平らげてくれるので可愛げがある。

 一番の問題児は、やはり健太郎だ。

 明充が声をかけても返事がなく、小さな妹や弟が騒いでいてもまったくの無関心。健太郎は今も奥の部屋に閉じこもっている。


 亮平を居間に追い返し、健太郎が汚したフライパンを洗う。焦げ付きはなかなか落ちない。

(せめて水に浸けておくとかしておいてくれよ……)

 力いっぱいスポンジを擦り付ける。


 ガチャンと鋭い音がして、またしても桃香の泣き声が響いた。


「兄ちゃん、桃香がコップ倒したー」

「違うもん、桃香悪くないもん! 浩平くんが桃香のこと押したせいだもん!」

「俺押してねえよ、馬鹿! 馬鹿桃香!」

「桃香馬鹿じゃないもん!」


 仲裁に入るため、明充は台所を離れる。

「まったく、お前らいい加減にしろよ」


 これからフライパンを洗い、野菜炒めを作る。昨日の味噌汁を温め直して、弟たちにごはんを食べさせる。食べ終えたら風呂に入らせて、明日の学校の準備もさせなければ。忘れず歯を磨かせ、早く布団に入るよう言いつける。そうしたら洗濯だ。朝は時間がないから、夜のうちに洗濯機を回しておきたい。そうだ、通学靴も洗わないといけないのだった。

 頭の中で、やるべきことに順序をつける。


 やっとのことで弟たちの言い合いをおさめ、明充は健太郎が閉じこもる部屋に向かって怒鳴った。

「健太郎、いい加減に出て来い! 俺飯作ってんだから、その間桃香たちの面倒お前が見てろよ!」


 健太郎の返事はない。


「おい健太郎、聞いてるのか!」

 明充は中に踏みこんだ。

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