第20話 走るしかない

 ささくれだった畳と、黄ばんでところどころ破れた襖。部屋の半分を二台の学習机が占め、片隅には兄弟たちの布団で山ができている。健太郎はその山に背を預け、本を開いていた。

「何?」


 長い前髪の隙間から迷惑そうに兄を一瞥すると、健太郎は本を閉じ、背中に隠した。


 明充は一気に言い放った。

「お前なあ、本読む暇があるなら、ごはんくらい炊いておいてくれよ。それからあんまり浩平たちに好き勝手させるな。桃香が泣かされてたの、聞こえてたんだろう? ああいうときはお前が桃香のフォローしてやんないとだめだろうが。六年生だろう、もうちょっとしっかりしてくれよ。それに何度も言ってるけど、ランドセルは帰ったらすぐ机のとこまで運ぶ! 玄関に放置しない! わかったか?」


 健太郎は無言で立ち上がった。のそのそと部屋を出て行くと、ランドセルを手に戻ってくる。

「はい、ランドセル片付けましたー。これでいいですか?」

 目も合わさずに言い、健太郎はいかにもかったるそうな態度で、再び布団の山に寄りかかった。


 呆れと怒りで、明充は言葉を失った。

(こっちの気も知らないで、ふざけんなよ……)

 握った拳を震わせながら、台所へ戻る。もう健太郎なんか放っておこう。いちいちやり合っていたら、家事が終わらない。


 一日が一日が、目まぐるしく過ぎていく。

 両親は働きづめで、ほとんど家にいない。次男の健太郎は反抗期、下の弟や妹は小さすぎて頼りにならない。

 この状況では、自分が家事を引き受けるしかないだろう。でなければ、生活が回らなくなる。

 明充なりに家計の苦しさは理解しているつもりだった。直接聞いたわけではないが、両親の様子から察しがつく。


「いいよな、あいつらは余裕があって……」

 明充は調理の手を止め、ぽつりとつぶやいた。


 放課後のことだった。

 グラウンドで後片付けをしていると、フェンスの向こうに圭太と祥吾の姿を見つけた。二人は部活動を引き上げ、もう下校に着いているようだ。揃って自宅とは反対の道を歩いていく。駅の方向だった。

 ピンときた。二人はこれから遊びに繰り出すつもりなのだろう。駅周辺には、同級生たちのたまり場になっている店があるらしい。

(俺は遊ぶ時間も小遣いもないっていうのにな……)

 アイロンのきいたシャツを着て、真っ白な通学靴を履いて歩く二人を、明充は妬ましく思った。





 眠りについたばかりの弟たちを起こさないよう気遣いながら、明充は浴室の扉を閉めた。家の壁は薄く、わずかな音も驚くほどよく響く。

 洗い場でバケツに水を溜めると、通学靴を濡らした。粉洗剤を振り、靴洗い用のブラシで擦る。

 ふと、後輩の言葉が蘇った。


「先輩、俺だいぶタイム縮まったんすよ」

 そう聞いたとき、明充は動揺の色を隠せなかった。

 後から詳しく尋ねたところ、後輩のタイムはまだまだ自分を脅かすものではなかった。

 それでもいつか追いつかれるかもしれない、抜かれるかもしれない。そんな不安が胸にこびりついた。


 このところ、明充はスランプが続いている。陸上選手としておそらく最後の舞台となるだろう競技会が、来月に迫っていた。

 思うようにタイムが縮まらない。むしろ走るたびに遅くなっている気さえする。部内で千五百メートルに出場するのは明充ただひとりで、それだけにプレッシャーを感じていた。

 なんとかして、調子を取り戻さなければ。

 後輩の好調が、明充を焦らせる。


 どうして自分は、こんなつまらない存在になってしまったのだろう。

 向かうところ敵なしだった。いつもクラスの中心にいた。誰もが自分の提案に目を輝かせ、後ろをついてきた。明充なら何か面白いことをやってくれる、明充が言うのだから楽しいに決まっている。友人たちから期待され、一目置かれることを、以前の明充は当然のものと受け止めていた。

 自分には人を寄せつけるだけの魅力がある。自分は特別な人間だ。そう信じて疑わなかった。

 だが次第にわかってきた。

 見渡せば、自分なんかより頭のいい人物、統率力のある人物、おしゃれで気の利いたことの言える人物、容姿の優れた人物が、ざらに存在する。かつて明充が君臨していたポジションは、そんな人物たちによって、呆気なく奪われていった。


 今のような生活では満足に勉強する時間もなく、明充の学力は落ちる一方だった。

 多くの同級生はスマホを買い与えられていたが、明充の家ではそんな余裕がなかった。おのずと流行りには疎くなり、クラスメイトとの他愛ない会話にすらついていけなくなった。

 こいつらはきっと、心の中で俺を馬鹿にしているのだろう。

 どんどん垢抜け、大人びていく同級生を前にして、明充は劣等感を募らせていった。


 そんな明充を支えたのが、陸上だった。昔から走りには自信があった。

 入部届を出した翌日から今日まで、一日たりとも部活動を休んだことはない。来る日も来る日も練習に励んだ。走っている間は、心に巣くう惨めさも、日々抱く閉塞感も、すべて忘れられた。


 自分にはもう走ること以外残されていない。もし、それすらだめになったら――。


 一旦靴をすすぎ、鼻先に近づけてみる。なんだかまだ臭いような気がする。再び洗剤を振りかけ、ブラシを動かす。ささくれだった指に洗剤がしみて、じくじくと痛みが走った。

 靴はなかなかきれいにならない。

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