第17話 ヒステリー
「何を言っているの、隆平」
「東京になんか引っ越さない。僕はずっとここに住んで、ここから高校に通う」
「馬鹿なこと言わないの。こんな田舎の高校なんて所詮は、」
「もう決めたから」
まったく、と母は大げさに頭を振った。
「あのねえ、隆平は将来について甘く考えすぎよ。まあ、それは仕方のないことだけど。だって中学生なんだものね。まだまだ大人が導いてあげなきゃいけない」
母は悟り顔で言った。
「隆平は最近気持ちが不安定だったでしょう? だからこの町で進学したいなんて血迷ったこと口にするの。やっぱりこれからも、隆平には母さんの手助けが必要みたいね。そうでしょう?」
「そうだね。最近は色々あってちょっと弱っていたけど……」
隆平は言い淀んだ。
このまま母の好きにさせるわけにはいかない。今ここで突っぱねておかないと、自分はきっと永遠に母の言いなりだ。
「ここには僕を支えてくれる友達がいる。僕はこの町が好きだ。だからここで進学したい。ねえ母さん? 僕は大丈夫だよ。この町でちゃんとやっていけるよ。母さんだってこの町をもっとよく知れば――、」
「それって、母さんはもう必要ないってこと?」
母の声が低くなった。
「隆平は母さんのことが邪魔なの?」
「ううん、違う。そうじゃないよ。ねえ、僕の話を聞いて」
「ええ、そうよ。友達がいるから母さんは必要ない。ねえ、そういうことなんでしょう? 今まで母さんは隆平のためを思ってやってきたのに、隆平はそれを全部否定するのね」
そこからは隆平がいくら「違う」と言っても、母は聞く耳を持たなかった。
「あなたには挫折を味わってほしくないの。父さんのように失敗して、こんな田舎でくすぶるだけの人生を送ってほしくないの。そう思ったから、母さんは心を鬼にして今まで厳しくしてきたんじゃない。どうしてわかってくれないの? どうして反抗するの? 母さんの言う通りにしていれば、いい高校いい大学いい会社、すべて間違いのない人生が歩めるのよ」
「……確かに、母さんの言う通りにしていれば間違うことはないかもしれない」
隆平は静かに息を吐く。
「でも、僕はちゃんとした大人になりたい。自分で考え行動して、その結果、間違ったり挫折したり失敗したり傷ついたり。そういう経験をしっかり積んで、まっとうな大人になりたいんだ」
初めて母の前で、自分の胸の内をさらけ出せた気がした。
「母さんを心配させちゃうこともあるだろうけど、しばらくは静かに見守っていてほしい。決して母さんが邪魔なわけじゃないよ」
「隆平……」
テーブル越しに、母が身を乗り出してくる。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
強い衝撃に、頭が揺れる。遅れて、頬に痛みが走った。
叩かれたのだ。
「馬鹿にするな!」
怒鳴り声を上げ、母はかっと血走った眼を見開いた。ティーカップを床に叩きつける。
「なんだ今の言い方は! お前はずっと心の底でわたしを憐れんでいたんだろう! 田舎でうまくやっていけないわたしを馬鹿にしてるんだろう! わたしが……わたしがまっとうな大人じゃないって! 病院の世話になるような心の弱い人間だって!」
「そんな、違うよ。誤解だよ」
「口答えするな! お前はわたしのことを恥ずかしいと思っているんだ。わたしが普通じゃないって思っているんだ。普通がそんなに偉いのか!」
弾かれたように席を立ち、隆平は後ずさった。知らず、母を刺激していたことを悟る。
母が金切り声を上げ、頭を掻きむしる。そんなに強く掻いたら、血が出てしまうんじゃないか。早く母を落ち着かせなければ。心配に思う反面、隆平の体はぴくりとも動かない。
今はどうしても、母に触れる気になれない。
じんと、頭の芯が痺れる。
だめだ失敗だ。もっと慎重になるべきだったんだ。こちらが何気なく口にした言葉にも、母は敏感に反応してしまう。その意味を捻じ曲げてしまう。
必死に打ち明けた思いは、何一つ母に伝わっていなかった。
悔しい。
涙が出そうになるのを、隆平は堪えた。
(母さんなんか、死んじゃえばいいのに)
そのとき、母が激しく嗚咽した。隆平は罪悪感に襲われた。一瞬でも、親の死を願うなんて――。
床に突っ伏し、母は肩を震わせている。母の髪には、白いものがまじっている。腕は細く骨ばり、皮膚は乾いている。
拘束から解かれたように、体が動いた。隆平は母に近づき、痩せた背中をそっとさすった。
「ごめんね、母さん」
ふと視線を上げれば、キッチンにバケモノが立っている。焦点の合わない目は、しかし確実にこちらを捉えているようにも感じられた。
瞬きと同時に、バケモノは隆平の視界から消えた。
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