第15話 支配

 ■ ■ ■


 通話を終えた隆平は、大急ぎで父の携帯電話を元の場所に戻した。足音を忍ばせて移動したので、階下の母には気づかれなかっただろう。

 友達に、母のことをどう説明しようかと隆平は悩む。

 今まで、周りからは父子家庭だと思われてきた。圭太も祥吾も、きっと母の存在を不思議がっているはずだ。母を父の再婚相手と勘違いしているかもしれない。

 二人には明日にでも、母と暮らすようになった経緯を説明しておこう。自分と母は、血の繋がった親子なのだと。事情があって、これまでは離れて暮らしていたのだと。


「隆平、下りていらっしゃい」


 階下から、母の呼ぶ声がする。隆平は一階に下りた。

 リビングで、母はソファに腰かけ、膝の上のノートパソコンを操作していた。


「勉強のほうは進んでる? 今日のノルマは済んだ? 今ちょうど新しい教材を注文したところなのよ。すぐに届くから、楽しみにしていてね。今度の教材はとってもやりがいがあると思うわ」


「あ、そうなんだ」

 隆平の気のない返事に、母は片方の眉を吊り上げてみせた。

「あら? 新しい教材が嬉しくないの?」


「う、嬉しいよ」

 隆平は慌てて頬に力をこめた。にっと笑ってみせる。


「あなたのためを思って、母さんが選んだのよ」

「う、うん。わかってる」

「じゃあ母さんにありがとうは?」

「あ、ありがとうございます……」


 母は束の間、探るように息子の顔を見たが、

「お茶でも淹れましょうね。隆平も飲むでしょう? 父さんが帰ってきたらお夕飯にしましょうね」

 パソコンを閉じ、キッチンに足を向けた。


「うん、飲むよ」

 隆平はうなずいてみせた。母の淹れるハーブティーは独特な臭いがして苦手だ。


 この家では、母の機嫌を損ねることが一番の命取りとなる。感情的になった母を落ち着かせるには、途方もない労力を使うのだ。日に日に父の帰宅時間が遅くなっていく訳は、母と顔を合わせる時間を短くするためだろうと、隆平は睨んでいる。


「さっき車の音が聞こえたけど、父さんじゃなかったの?」

「さあ、お隣の車じゃないかしら」


 母がキッチンに消えると、隆平は手持無沙汰にリビングの中をうろついた。

 自宅にいながら落ち着かないのは、何もかもが母の手によって管理されているからだろう。


 父と二人だった頃、その生活はもっとおおらかなものだった。

 男だけの家の中は常に雑然としていたが、隆平も父も気にしたりはしなかった。むしろうまくやれているほうだろうと考えていた。掃除が行き届かず、部屋の中が常に埃っぽいのも、脱いだ服がソファの上に置かれたままなのも、見慣れた光景だった。


 今ではそんな真似許されない。

 家中が母の領域だ。

 現在のリビングは極端に物が少なく、整理整頓が徹底され、生活感というものが一切排除されていた。日の光が入る午後の時間帯でも、リビングはどこか寒々しい空気を漂わせる。

 母と暮らすようになった二年前から、隆平にとって自宅は、決して気を許してはいけない場所となった。


 一家は、東京の出身である。

 隆平が四歳になる年だった。商社に勤めていた父は、人間らしい暮らしがしたいと言って退職を決めた。父の帰りは零時を過ぎるのが普通で、家族との時間がとれないことを悩んでいた。

 仕事を辞め、どこか田舎で家族とともにのんびり暮らそうと、父は夢見たのだった。

 今の町に移り住んでから、父は農業に関する勉強をはじめた。だがすぐに厳しさを痛感し、結局隣市の工場に就職を決めた。それで一家の生活は軌道に乗るかと思われた。

 間もなく、母が体調を崩した。

 新しい環境に馴染めず、精神を病んだ。田舎町特有の隣近所の近さは、都会育ちの母には負担が大きかったようだ。


 母はひとり東京の実家に戻り、通院や入退院を繰り返すようになった。

 その間、隆平と父の二人暮らしが続いた。いつの間にか周囲は勝手に遠野家を父子家庭だと思いこむようになった。父子はあえてそれを否定しようとはしなかった。詮索されるのを避けたのだ。


 母の病状は一向に良くならず、父子は毎週末、東京の病院まで見舞いに通った。

 父は毎回、病室に入るなりやたらと饒舌になった。ベッドの上の母に向かい、絶えず言葉を投げかけた。しかし母はぼんやりと宙を見つめるばかりで、何の反応も返さなかった。幼い隆平は、病室の隅で紙パックのジュースを飲みながら、ちらちらと両親の動きに注意を向けていた。

 病室で、父子はともに絶望していた。


 娘がこうなったのは、あなたがしっかり守ってやらなかったせいだと、母の実家や親戚連中から父は厳しくなじられていた。父は己の夢に母を付き合わせてしまったことを、後悔していた。

 何があっても絶対に妻を、母を、見捨ててはいけない。父子はそう自分たちに言い聞かせて、踏ん張り続けた。

 母は精神を病むことで、夫と息子を支配下に置いたのだった。

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