第10話 四年前(七)
それは四つ足をついて、ゆっくりと左右に揺れていた。
汚れの詰まった長い爪、傷だらけの手足。顔の両脇に垂れた髪が、体の揺れに合わせてぬらぬらと動く。胴体には布らしきものが巻き付いていた。元は白っぽい生地だったのだろう。それが薄汚れ、あちこち破れている。幅広の口からは、よだれが糸を引いて流れ出ていた。
ぎいぃ……ぎいぃ……。
それが不気味な声をもらした。
びくりと身を引き、圭太は壁に背を押し付けた。
今のはまさか、威嚇の声か?
それの瞼は閉じられているので、表情が読めない。夢見心地のようにも苦悶しているようにも見えた。
動物、ではない。人間か?
立ち上がれば、おそらく自分たちより大きいだろう。顔つきも人間に近く、体のぼろ布は元々は洋服だったように見えなくもない。
だけど違う。
こいつは人間じゃない。
観察した結果でなく、本能として導き出した。こんな気味の悪い生き物が、自分と同じ人間であるはずない。
じゃあなんだ?
バケモノだ。
この穴倉は、バケモノの棲み処だったんだ。
「で、出よう、明充」
圭太は手を伸ばし、明充を立たせようとした。こちらが物音を立てても、バケモノの反応は薄い。瞼が閉じられていることから考えて、今はまどろみの最中なのかもしれない。
バケモノを目の当たりにして、明充は腰を抜かしているようだった。
「ほら明充、行こう。立って」
祥吾は小声で明充を急き立てた後、苛立ち混じりにつぶやいた。
「ああ、くそっ、なんだよこの気持ち悪いバケモノは」
明充は足を踏ん張り、やっとのこと立ち上がった。
その瞬間、バケモノが両目を開いた。
「ひぃっ……!」
圭太は悲鳴を呑みこんだ。
目を剥くと同時に、バケモノは大きく口を開いた。
ぼ、ぼ、ぼぉぉぉぉぉぉぉぉ……!!
咆哮が響き渡った。まるで生きたまま焼かれているような声だった。
三人は一斉に駆け出した。すぐ背中に、追ってくるバケモノの気配を感じた。死に物狂いで出口を目指す。
穴を抜け出てからも、圭太は走り続けた。先に脱出した祥吾と明充の姿は、もう見当たらない。それぞれが逃げ道を探して、林に散った。
圭太は逃げる途中で、木々の隙間に隆平の姿を見つけた。
まだ神社に戻っていなかったのか。
叫ぶ。
「隆平今すぐ走れ! 逃げろ! バケモノだ! バケモノが追って来てるぞ!」
「えっ? ええっ? 何バケモノって」
おろおろする隆平だったが、圭太の声に緊迫したものを感じとったのだろう。言われた通りに走り出した。
圭太は絶えず背後にバケモノの気配を感じ続けていた。
バケモノの足音がしないのを、妙に思った。
走りながら、素早く後ろを振り返る。やはりバケモノはいた。だが、走ってはいない。四つん這いの姿勢で地面をのたうち、迫って来ている。凄まじい速さだ。
「うわあぁ……!」
圭太は必死に両足を動かした。今、足を止めたらだめだ。せり上がってくる恐怖と戦いながら、地面を蹴る。鋭い草の先がふくらはぎを切りつけた。血がにじむ。構わず走り続けた。
足を止めれば、その瞬間に捕まるだろう。
捕まった後はどうなる?
ついに荒い息遣いが耳元までやって来た。
「来るな! 来るなよ!」
圭太は叫び、走る速度を上げた。だが引き離せない。依然としてそれの気配が背中に張り付いている。
「あっち行けよ、バケモノ!」
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