さよなら、大好きなご主人様。
「ご主人様っ!!」
息を切らしながら彼女が僕にむかって駆け寄ってくる。
「えっ!? ……オリザ、君は親父の車で僕の迎えを待っているはずじゃないのか?」
「早くお散歩に行きたくておじさんにわがままを言っちゃった。許してね、わん!!」
彼女の背後に見える運動公園の駐車場に停められた一台のワゴン車。運転席に座る親父とフロントウインドウ越しに目があう。
僕に気を効かせたつもりか。ありがとうな親父。
「……だめじゃないか、君はまだ病み上がりの身体なのに。それにその格好は何なんだ。寒くないのか?」
突然、目の前に現れた彼女に戸惑ってしまい、言わなくてもいい小言を並べてしまう。
「……ご主人様」
いつものトレードマークであるフードについた白い犬耳が頭を動かすたびに揺れる。彼女は不思議そうに僕を見つめた。
「私は病気じゃないよ。だっておじさんが言ってたもん。もう退院出来るって!!」
「オリザ、それは……」
僕は何も言えなくなってしまった。
おりこうさんにしていればすぐに退院出来るって、彼女と約束したのはこの僕だ。その場しのぎの安易な嘘をついてしまったことを後悔する。
彼女の身体をいまも蝕んでいるのは病のたぐいなんかじゃない。過去の因習めいた呪いによって、オリザの命の長さはいまも削られているんだ。
あんなに固く心に決めたはずなのに、彼女の無邪気な笑顔を見た途端に激しく気持ちが揺らいでしまう……。
「……そうだったな。でも入院中に親父の言いつけをちゃんと聞いていたか!! あの医院の看護師さんは実は怖いんだぞ。なにせ院長がいい加減だから」
「わん、オリザはおりこうさんにしていたよ。それにご主人様の話は信じられないよ。おじさんも看護師のお姉さんもみんな私に優しかったし」
沈みかけそうな自分の気持ちを取り繕おうと、わざと明るく振るまった。もしも彼女が本来の
「私、本当に心配したんだよ。このままご主人様が迎えに来ないんじゃないかって。もう二度とお散歩に連れていって貰えないかも……」
「な、何を言ってんだよオリザ!! 君はどうしてそんなことを考えたんだ?」
「……わん、自分でもよくわからないの。胸の奥がきゅうって苦しくなって。不安な気持ちがどんどん大きくなるみたい」
彼女の中で確実に何かが変化している!?
だけどそれはけっして良い兆候だけではない、呪いの進行による
一刻の猶予もしてはいられない。
「……待たせたねオリザ、さあ、お散歩にいくよ」
「わん!! 久しぶりにご主人様とおでかけだ。とっても嬉しいな」
「そんなにはしゃぐと身体にリードが着けられないぞ。オリザ動かないでじっとして!!」
「……ごめんなさい、ご主人様。でも嬉しすぎてつい身体が動いちゃうんだもん」
これが彼女とする最後の散歩だ。毎日のルーティーンになっていたはずの何気ない動作が、僕の胸に悲しみの矢を突き立てる。
……覚えているかい? 君はよく散歩中の僕を困らせたよね。道路を行き交う車の騒音に驚いて、その場に立ちすくんでしまう癖。
僕が歩きません
これは照れくさいから言えなかったけど、僕は君のそんなしぐさが心底可愛いと思えたんだ。
「ねえ、ご主人様。久しぶりに鴨さんの池を見にいってもいい?」
「ああ、構わないけど、オリザは本当に鴨を見るのが好きだな」
「だって、公園の池には鴨さんがいっぱいいてとてもキレイなんだもん!!」
運動公園の遊歩道の途中に大きな池があり多数の鴨や亀が生息している。彼女は散歩の途中でそこに立ち寄るのが大好きだった。飽きもせずベンチに座ったまま水面を眺めていたことを思い出す。
「わあっ、今日も鴨さんがいっぱい浮かんでるよ!! ご主人様も早く来て。ほらベンチの特等席も空いてるから隣に座って」
「オリザ、そんなに急がなくても鴨さんは逃げないから!!」
「あっ!? 手前に並んでいた鴨さんがお池の中に逃げちゃった。私がびっくりさせちゃったのかな?」
「君と同じく物音に敏感なだけさ、すぐに戻ってくると思うからそんなに悲しそうな顔をするなよ」
「うん、それを聞いて安心したよ。ご主人様が物知りで本当に良かった。それにオリザについてもよく知ってるもんね!!」
「子犬の君について知らないでは済まされないよ。それがご主人様としての務めだからね」
池を一望できる絶好の場所に置かれた赤いベンチ。日中に空いているのは珍しいな。いつも彼女はこの場所に座りたがったことを思い出す。
せめて子犬のオリザには幸せな気分に包まれたまま、過去の人間だった記憶を取り戻して欲しい。
呪いが発動する前の彼女の記憶が戻ったら、子犬の精神を持った別人格のオリザは完全に消えてしまうはずだ。
僕はこのベンチを彼女と最後の別れの場所に選んだ。
「……あのね」
隣に座るオリザが最初に言葉を発した。こちらの肩に彼女の重みを感じる。彼女の息使いが感じられる距離感だ。
目の前に広がる景色。池に太陽の光が反射してまぶしいくらいだ。ときおり吹く風に揺れる水面の波紋から逃れるように鴨が一斉に飛び立った。
「私はご主人様のことが好き……」
「……オリザ、そんなのはとっくに知っているよ。ぼくのことはどうせ飼い主としての好きだろ?」
終わりの予感をかき消すように道化の言葉が口の端から漏れる。いま彼女と視線を合わせてはいけない。
不意に涙がこぼれてしまわないように顔を上げる。見上げれば今日も青空が澄んでいるじゃないか。
「ううん、ぜんぜん違うよ。私の好きは恋人の好きって意味だよ。ご主人様からも感じる匂い。それはオリザと同じ大好きの匂いだから……」
もう限界だった。その言葉を聞いた瞬間、自分の中に隠していた彼女への想いが
「ご主人様……!?」
「……僕もオリザのことが大好きだ!! だから君を。君の人生をこんな悲しい理由で失わせたくない」
「わん。やっとおあずけをといて私を抱きしめてくれた。元旦のお部屋で私がふざけて目隠しをしたとき以来だね。もっともっとオリザはご主人様と仲良しをしたかったんだよ」
僕は彼女の柔らかい身体を夢中で
……今日のために僕の能力は存在していたことにやっと気がついた。
「ああ、オリザ。ずっとお預けばかりしてごめんね。僕も君をこの手で抱きしめたかったんだ」
「嬉しいな、ご主人様の好きって気持ちが私に伝わってくるよ……」
腕の中の彼女の記憶に思いっきりダイブする。これまでどうしても
御神木が何よりの目印がわりになる!! 忌むべき呪いの象徴がオリザを救い出す役に立つとは皮肉な物だな……。
過去の記憶、
「
「……その声は!? まさか
「君はこの場所に留まっていたらいずれ死ぬ運命が待っているんだ。さあ、僕の手を掴んで!!」
過去の記憶に初めて干渉することが出来た。これまでも可能だったのかもしれない。僕に一歩踏み込み勇気がなかっただけか?
いまはそんなことはどうでもいい。
確実に言えるのは今回、僕に一歩を踏み出す勇気を与えてくれたのは他ならぬ彼女なのだから……。
戸惑いでその場に立ちすくんだままの、もうひとりのオリザの手を強引につかみ取る。そのまま記憶の球体の外に彼女の身体を引き上げた。
「きゃああっ!!」
「僕から絶対に離れるな。目を閉じてしっかりつかまっているんだ!!」
手首に巻き付けたカラフルなお散歩リードの先端が、まるで頼もしい命綱に思える。同時に僕の耳元に流れ込んでくる聞き慣れた声。
『……ありがとう、ご主人様。最後に気持ちをしっかりと伝えてくれて。オリザは本当に幸せなわんこだったよ!! もうひとりの私とも仲良くしてあげてね』
もうひとりの私!? 彼女の中で過去の記憶が戻ってきた証拠だ。じゃあ子犬の精神を持つオリザはもう消えてしまうのか……。
『オリザっ!! 待ってくれ、せめて最後に君にお別れを言わせて欲しいんだ』
『さよならご主人様。あなたの心の片隅にでも新しい私のお部屋を作ってくれたら嬉しいな……。わん!!』
まるで古いブラウン管のテレビを消したように視界が急速に細くなり、辺り一面が一気に暗転した。
……子犬のオリザは僕の前から永遠にいなくなった。
次回に続く。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
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いよいよ次回は本編最終話です。どうぞ最後までお楽しみに!!
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