僕のいちばん大切な君へ。【オリザへの手紙】

 ねえ、オリザ。悲しい記憶の奈落に堕ちていくのなら君の居ない場所が良かった。


 どうして僕たちは出逢ってしまったんだろう。


 それも君が子犬で僕は飼い主という不思議な関係で……。


 天真爛漫な君の笑顔にいつしか僕は惹かれていった。飼い主ではなくひとりの男として。


 オリザを絶対に手離したくない。このまま君の記憶が戻らなければ一緒に暮らせる。そんな自分勝手な考えまで浮かんてしまったんだ……。


 僕は君のご主人様失格だ。


 君の命の時間に制限タイムリミットが掛けられているなんてまったく知らなかった。


 犬の特殊能力を持つオリザの身体に起こっていた悲しい変化を、飼い主ならばもっと早く気がついてやるべきだったのに……。


 ねえ、オリザ。やっぱり僕は完全にご主人様失格だよね。いまもおりこうさんで病室にいる君にとても合わせる顔がないよ。


 そんな男らしくない泣きごとでも口にしなければ、すぐに押し潰されてしまいそうな途方もない悲しみの淵に、いまの僕はさまよっているんだ。


 君の腹違いの姉である奈夢子なむこさんが、どうしても僕に言えなかったオリザの呪いの正体を知ったよ。彼女のもっとも悲しい記憶の情景をたから。


 記憶をなくす前の制服を着たオリザが、奈夢子さんと最後の別れをする瞬間に立ち会ったんだ。鎮守様おちかんさまの森の奥深くにそびえるご神木しんぼくのある場所だ。自分の心と身体の変化に気がついた君は、普通の女子高生としての記憶を完全に消失する前に姉である奈夢子さんと最後の会話をしていたんだ。


 ご神木の中にいる神様も本当に性格が悪いよな。呪いの発動にこれほどの時間差を設けるなんてあまりにひどい話さ。


 そうだよオリザ。覚えているかい。ご神木は君が子供のころに自殺しようとしていた僕の命を救ってくれた場所さ。


 どうしてこんなにも大切な君との思い出を簡単に忘れてしまったんだろう。それも記憶の改ざんを施されたように。


 いまでは記憶が消されたような感覚で断片的にしか思い出せないけど、当時の僕はそこまで精神的に追い詰められていたんだな。これも君たち姉妹の会話でいまさら知った事実だ。


 君の名前にどおりで聞き覚えがあったはずだ。理由わけを記憶の球体スフィアの中でようやく思い出したよ。子供のころ親父の書斎で遊んでいて、偶然に読んだ文庫本なんて最初からどこにも存在しなかったんだ。


 君との記憶を勝手に物語の中に封じ込めて忘却の彼方に追いやってしまった。


 森にあるご神木で小学生の僕が自殺を試みた過去はまぎれもない事実だ。自分の持つ化け物みたいなの能力をみずからの命とともに消し去りたかった。

 

 文庫本の中の物語と同じく僕はオリザに間一髪で命を救われた。君の命の時間と引き替えに……!! 


 皮肉な物だよね。君の持つ能力はだけじゃなかった。万代橋ばんだいばし犬上いぬがみ。両家に古来から従える僕たち異能者の存在を全部含めても、奈夢子さんいわくオリザは歴代最高の能力の保有者らしい。念動力のような物で僕がご神木に吊るした太いロープを切断してくれたんだ。とうぜん頭の中の考えを読んでの行動だったことを後で知ったよ。


 君去らずの伝承。その詩に詠まれた悲恋の男性も、同様な能力を持っていたと宝物殿の隠し部屋にある古文書には記されていたそうだ。もちろん一般には公表はされていない。


 オリザは狐憑きつねつきって聞いたことはあるかな。その現象は本当に存在したんだ。今回の話は狐ならぬ犬だけどね。ここでは仮に犬憑きとでもしておくよ。


【君去らず、その面影を待ちわびて涙も枯れにけり……】


 非業の死を遂げた娘の魂を弔うため愛犬がんだといわれている詩だ。


 君去らずの伝承の詩にある一節だから、記憶をなくす前のオリザなら知っているよね。久里留神社の境内にある記念碑にも刻まれている僕も大好きな詩の箇所さ。


 最愛の男性の死を嘆き悲しんだ娘は後追いで自らの命を絶ってしまう。その亡骸に寄り添うように娘が大切にしていた白い愛犬がいつまでも離れずにいたという。不思議なことに犬が人間の言葉を突然しゃべり始めて娘の死を嘆き悲しんだと言い伝えられている。


 その荒唐無稽に思える話は実際にあったんだ。人間と動物。魂の入れ物として入れ替わりが自由に出来る不思議な能力。詩に詠まれた言葉を話す愛犬はその能力を使った男性の仕業だったんだ。娘のそばに影のように仕えていた愛犬の魂は彼の物だよ。


 愛犬の中に魂として隠れた男性は、もしも自分の正体が知られたら娘に迷惑が掛かると思い、生涯を犬として言葉を発するつもりはなかったのに……。男性が自殺したと勘違いした娘が後追いをしてしまうなんて。


 まさにあの詩の一節は犬と入れ替わった男性の慟哭どうこくの叫びだったんだ。あまりにも悲しすぎるよね。


 オリザ。なぜ僕がいまさら古い詩の話をするのかって? きっとおあずけが嫌いな君ならそう言うかもしれない。


 ごめんね。僕にも気持ちの整理が必要だったんだ。いまになってしまえばかび臭い伝承の話やふたつの家にまつわる因縁とかそんな話はどうでもいいんだ。


 君に降りかかる呪いを払えるシェルターになれたら。そんな物語の主人公みたいな難題解決を実行する前に、君と最後におさらいをどうしてもしたかっただけさ。


 オリザ。しっかり聞いて欲しい。ここからが本題だ。事実なのはひとつ。君はいまに犯されている。鎮守様の森で僕を自殺から救ったときに折ったご神木の太い幹のせいだと。奈夢子さんは記憶の中の会話で言っていた。そんな祟りみたいな非現実的なことがあるとは、普段の僕ならば到底信じられないが……。


 君去らずの伝承にはまだ続きがあったそうだ。


 犬になった男性はその後、村人たちから神の化身と崇められ、久里留くりる神社建立のいしずえとなったんだ。古文書の記述では男性が人間に戻ったとは記されていない。その後は犬の生涯を全うして亡くなった後、ご神木のある場所に手厚く埋葬された。


 勘のいい君なら僕の言いたいことが分かるよね。この話を奈夢子さんが僕に直接告げられないはずだ。オリザに降りかかった呪いがもたらす重さを知ったとき自分も思わず叫び出しそうになっちまったから。


 ……今のままの状態で放置したら君の命の長さは犬の寿命と同じになる。


 僕たち人間と比べて犬の状態のままの君は時間の流れがまるで違う。もしもこのまま記憶が戻らなければ僕たちよりもずっと早くオリザは死を迎えてしまう。


 そんな悲しい未来は絶対に嫌だ!! たとえ君が僕の前から完全にいなくなったとしても……。


 この手紙が君のもとへ届くことは絶対にないかもしれない。もしも間違って投函されたとしても、差出人の僕の名前をオリザが忘れている未来を心から願っているよ。


 親愛なる君へ。


 猪野宣人。

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