お兄さんと一緒なら何でも出来そうな気がするんです。

 ……テーブルの端からしたたり落ちるわずかな水滴。それはまるで彼女の流した悲しみの涙に思えた。


 猫森未亜ねこもりみあ――妹の天音あまねの部活動の先輩で、現在は女子高に通う僕と同じ歳の女の子。どこか子猫を思わせるような大きな目にもいまは陰りの色が浮かんでいる。


 先ほど彼女が告げた決意の言葉。ひとりで母親のアパートを訪ねたいと気丈な姿を僕に見せてくれた。しかしその後でまた暗い表情になるのは仕方がないだろう。これまで彼女が幸せに暮らしてきたはずの十六年の生活は、母親の失踪で一変してしまったのだから……。


 ファミレスの店内は週末の夕方ということもあり、ほぼ満席に近かった。隣の席に座る幼い子供連れの家族の会話が自然と僕の耳に入ってくる。


「お母さん!! このチーズハンバーグおいしいね。全部食べちゃったよ。ほら、こんなにきれいなお皿になっちゃった。お父さんも見てよ。僕とってもえらいでしょう!!」


 普段は微笑ましく思える家族連れの会話が、いまの未亜ちゃんの耳にはどう聞こえているのだろう? きっと過去の両親との楽しかった思い出と重ねてしまうはずだ……。


 こんなときに気の利いたセリフひとつも掛けてやれない陰キャな自分に腹が立った。そんな気まずい膠着こうちゃく状態を先に破ったのは彼女からだった。


「……香菜かなちゃんが持って来てくれたおしぼりを使ってください。お兄さんの洋服がまた濡れちゃいますよ」


「ありがとう未亜ちゃん。それにしても祐二ゆうじたちはどこに行っちまったのかな? 戻って来たかと思ったらすぐにこの場からいなくなってさ」


「……何だか作戦会議があるって言ってましたよ。私とお兄さんは来ちゃダメだって天音ちゃんから念を押されました。私たちに内緒の作戦っていったい何でしょうか?」


 天音の奴がまた何か企んでいるに違いないが、未亜ちゃんとの間に流れる重苦しい雰囲気を解く糸口になったのは僕にとっては好都合だった。


「さ、さあ。天音の考えることは兄の僕でもたまに理解出来ないことがあるんだ。身内をほめるわけじゃないけど天才肌の発想っていうのかな?」


「あっ!? それは良く分ります!! 天音ちゃんと一緒の卓球部だったから。彼女の試合運びは私みたいな普通の選手とは大違いなんです」


「あれっ、でも未亜ちゃんもかなりの腕前だと僕は妹から聞いているよ。県大会でも上位ランカーだって」


「それは中学時代の話です。恥ずかしいな。でも卓球に関して天音ちゃんのことを天才だって思うのは、いつも試合の後半になると驚異的な追い上げで逆転勝ちすることなんです。卓球に限らず球技スポーツは序盤で大差をつけられるとメンタル的にも崩れてしまう選手が多いのに彼女の強さは半端じゃないって……」


 そんなに天音がすごい活躍をしているとか僕はまったく知らなかった。確かに妹は負けず嫌いで勝気なところはある。彼女が冬至の夜の風呂場で僕に打ち明けた過去の会話から、相手の心が読める能力を試合で使っているとは絶対に考えられない。


 この人探しの件が無事解決したら天音にこの話をしてみるのもいいな。たまにはあいつのことも褒めてやらないと。でも急に卓球の話をするのは不自然だな。それに僕は卓球のたの字も知らないんだ。ここは卓球に詳しい未亜ちゃんに教えてもらうのがいちばん手っ取り早いな。


「そうだ未亜ちゃん、僕に卓球を教えてくれないか? 高校でも帰宅部で最近運動不足で身体がなまっていてさ。冬休みの間にふたりで卓球の出来る場所へ出掛けようよ!!」


「ええっ!? 天音ちゃんのお兄さんと私がふたりっきりでお出かけですか……!!」


 あ、やらかしてしまったか? 僕は陰キャのくせに未亜ちゃんに対してとんでもない提案をぶちかましたことに遅まきながら気が付いた。本音はこの気まずい空気を一刻もはやく消し去りたくて卓球を教えてくれと言ったのに……。


 彼女は僕からデートのお誘いを受けたと素直に勘違いしてしまったんだ。


「あっ、うううっ!? ……何を言ってんだ僕は。未亜ちゃんとふたりっきりでお出かけなんて変だよね。天音も香菜ちゃんも同じく卓球部だってのにピンポイントで君を誘うなんて意味不明だし。いま僕が言った話は聞かなかったことにしてくれ!!」


 しどろもどろになりながら弁解の言葉を口にする。未亜ちゃんはこれから母親に会いに行くという大きな試練が待っているんだぞ。そんな彼女に軽々しくデートのお誘いをしている場合なんかじゃないだろ!!


「……いえ、未亜もお兄さんとぜひ一緒にお出かけしたいです」


「へっ、僕とぜひ一緒に!? 何て言ったの未亜ちゃん」


 彼女の口から出るはずのない言葉に思わず自分の耳を疑った。良くあるラノベの主人公キャラみたいに僕は難聴ではないはずだが……。


「はい、ハッキリと言いました。私はお兄さんとぜひデートがしたいです。その楽しみが後で待っていると思えば、これからの行動がひとりでも頑張れる気がするんです」


 未亜ちゃんの強い想いが僕にも痛いほど伝わって来た。久しぶりに会う母親の口からどんな過酷な事実を投げかけられても、彼女は折れない気持ちで対峙するつもりなんだ。


「……君はお母さんの問題に真っ向から向かい合う気なんだね」


「自分でもまだ信じられないんですけど、こんなふうに強くなれたのはお兄さんと知り合えたからかもしれません。他人の問題なのに全力を出して奔走してくれるあなたの姿を見ていたら私も変わらなきゃ!! って心の底からそう思えたんです」


「未亜ちゃんに僕が影響を与えるなんて……」


 彼女の意外な言葉に驚きを隠せなかった。僕は困った人をただ見過ごせない性分なだけなのに未亜ちゃんはとんだ買いかぶりをしている。だけど真剣にこちらを見つめてくる素直な瞳に何も言えなくなってしまった。


 しばしの間、お互いの視線が交錯する。彼女は不意に視線を手元に落とした。その視線の先にはあの思い出の腕時計が輝きを放っていた。


「この腕時計はやっぱり預けておきます。そのかわりに弱気になって逃げ出しそうな私に、今だけはお兄さんの勇気を分けて貰えませんか……」

 

 決意の証明である腕時計を僕は無言で受け取った。彼女の想いとともに……。

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