見知らぬ街の匂い。胸に湧き上がる疑念……。

 犬の嗅覚は人間の百万倍以上と言われている。その優れた能力を使って行方不明者を捜索する災害救助犬や、犯人の特定や索敵に活躍する警察犬。その二種類に大まかな区分がされている。


 二種類の訓練された犬には数々の違いがあるそうだ。警察犬は犯人の持ち物などに付着した特定の匂いを覚え込ませて追跡させるのに対して、災害救助犬は空中に漂う不特定多数の匂いを瞬時に察知して、人の居場所を探し出せる違いが存在する。それぞれに得手不得手があると聞いた。


 これはオリザと暮らすようになってから犬の生態について本から得た知識だ。本屋や図書館に行かなくとも親父が集めた蔵書がとても役にたった。


 当初の僕はオリザについて大きな勘違いしていたことがある。


 彼女は自分を子犬だと思いこんでいるだけで、自己暗示の一種だとしか考えていなかった。


 常識で考えてみてほしい。たとえ自分を犬だと信じ込んだとしても、その動物の能力まで身につけることは不可能だと考えるのはごく普通だろう。


 だがそれは僕の大きな間違いだった。オリザには犬と同じ優れた嗅覚が備わっており、妹の天音あまねの先輩である猫森未亜ねこもりみあの持ち物から、彼女の行方不明になった母親の匂いを特定した一件を経て、自分が常識に捕らわれ過ぎていたことを認めるに至った。


 余談だがオリザにはビションフリーゼという犬種の特性が色濃く現れていると、僕の父親が教えてくれた。


 小型の愛玩犬に属する犬種だが、日本でも流行した白いアフロ犬といえば外見の想像はつくだろう。白いもふもふの頭が特徴だ。オリザのトレードマークである白い犬耳付きのフードパーカーは、そこから来ているのだと知って思わずほほえましくなったが、後で彼女の身に起きた事実を知ってしまった僕は暗い海の底に沈められたような最悪の気分になったんだ。


初詣に訪れた神社、その奥に鬱蒼とそびえる森の中で万代橋奈夢子ばんだいばしなむこから告げられた信じがたい話の内容に起因している。


 とても可愛らしい白い子犬を思わせる服装が、オリザにとっては拘束具の役割をしていた事実なんか知りたくなかったから。


 ……だめだな、オリザの過去に想いを巡らせると暗い気持ちになってしまう。いまは目の前の人探しに集中しよう。


「オリザ、かがんだ姿勢ばかりでつらそうに見えるけど本当に大丈夫か?」


「……わん!! ご主人様。まだまだオリザは平気だよ。だって人探しって面白いもん。みんなを引き連れて長いお散歩をしているみたいでとっても楽しいから」


 彼女の嬉しそうな言葉を聞いて僕は安堵の吐息をもらした。嗅覚を使っての捜索と言っても本物の犬みたいに地面にはいつくばるわけではないが、僕たちには嗅ぎ取れない空気中のわずかな匂いを感知するために、オリザはかがんだままの姿勢を保って前に進んでいた。その格好は身体に負担を与えるのではないかと危惧していたんだ。


「オリザちゃんにとってはこの人探しも遊びみたいなものかもしれないね。ねえ宣人お兄ちゃん」


「そうだな天音。このままなら思ったよりも早く目的にたどり着けるかもしれないな」


 オリザのお散歩リードの持ち手を交代した天音から声を掛けられる。僕たちお泊まり会のメンバーはオリザを真ん中にして歩道を一列になって歩いていた。


 初めて訪れた場所は、東京と神奈川の県境の街だった。どことなく僕たちの住む地方都市に似ているな。

 違うのは歩道の狭さとひっきりなしに行き交う自転車と歩行者の多さだな。だから安全を考えて隊列を決めたんだ。一列になってオリザを中心にすれば他の迷惑にもならないからだ。


「しかしこの辺りは子供乗せ自転車が多いよな。歩道が狭いから気を付けないと身体がぶつかりそうだぜ」


祐二ゆうじお兄ちゃん、列を乱さないの!! ほら、言ってるそばから自転車の邪魔になってるよ」


「おっと危ねえ!! 人身事故になっちまうところだったぜ」


 阿空あく兄妹の何気ない会話から僕はある出来事を連想してしまった。


「……そういえば祐二、お前にお姉さんか妹っているか?」


「宣人、やぶからぼうに何なんだよ。変な奴だな」


「いや、なんとなく聞いてみただけなんだけど」


「……俺には香菜かなしか兄妹きょうだいはいないよ。両親に隠し子でもいるなら別だけどさ」


「祐二、それは間違いないんだよな」


「何だよ宣人。今日はその部分に妙に突っかかるな。ネタの前振りでもしてんのかよ」


「そんなんじゃないけどさ。もしもお前が言いたくなければ無理に聞き出そうとはしないから……」


「宣人。自分で振っておいて話を勝手に完結すんなよ。今日のお前はおかしいぞ。何か変な物でも食べたんじゃないのか?」


 人身事故。祐二が口にした不穏なワードに僕は反応してしまったんだ。昨年のクリスマスイブの日。天音の策略にはまってオリザの下着を買い物するというミッションに駆り出された僕は、偶然ショッピングモールに居合わせた香菜ちゃんとぶつかった拍子に彼女の身体を抱きしめてしまう。


 そして彼女の抱えるもっとも悲しい過去を追体験してしまったんだ。その光景がまざまさと僕の頭の中に蘇ってくる。幼い姉妹が交差点で交通事故にあい、姉が車にはねられてしまった痛ましい記憶。事故現場で泣き叫んでいた少女は幼い香菜ちゃんだったんだ。そして瀕死の重傷にみえたもうひとりの少女。香菜ちゃんからお姉ちゃんと呼ばれていた。その少女と阿空兄妹との関係性が分からない……。


「……宣人さん、その話はやめにしてもらえますか。いまは未亜先輩のことに集中しましょう」


「香菜ちゃん!?」


 祐二との会話はそこで遮断された。振り返るとちょうど真後ろを歩いている香菜ちゃんと視線が合ってしまう。彼女の表情はにこやかに見えたが、口調の響きに強い拒絶が含まれているのを感じ取った僕は、その話題から離れたほうがいいと判断したんだ。


「……くんくん、んっ!? この先で未亜のお母さんの匂いが強くなってるよ。ご主人様、早く行こう」


 オリザが未亜ちゃんのお母さんがいる場所をついに特定出来たみたいだ。一気にその場に居合わせたメンバーが色めき立つのが感じられる。


「オリザさん、私のお母さんの匂いで居場所をみつけたの?」


「きゅ~ん!! 未亜のお母さんに間違いないよ。オリザが一番乗りしちゃおうかな」


「あっ!? オリザちゃん、急に走っちゃだめだよ!! 自転車とぶつかっちゃう」


 勢いよく駆けだそうとするオリザをお散歩リードの持ち手である天音が慌てて制する。


「オリザ、危ないっ!!」


 歩道の隊列を乱して飛び出したオリザに対向から来た自転車がぐんぐん迫ってくる。このままでは正面衝突は避けられない。次の瞬間、勝手に身体が動いていた。


「きゃあああっ!!」


 視界の隅に悲鳴を上げるオリザの姿が見えた。彼女と自転車の間に自分の身体を強引に割り込ませる。


 ゴッ!!


「ぐあっ!!」


 耳障りな音とともに背中に鈍い痛みが走る。オリザをかばって自転車とまともに衝突してしまった。無様なうめき声をあげながら転がったアスファルト道路に、身体のあちこちをもろに打ちつけてしまう。あまりの激痛に顔がゆがむ。だけど自分の怪我なんかを気にしている状況じゃない。


「オリザっ!! 大丈夫か!? 頼むから返事をしてくれ……」


 僕の呼びかけにも歩道の脇に倒れたままの彼女からは何も返事が返ってこない。


 はたしてオリザは無事なのか!? 

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