もうひとりの正統な後継者。

 鎮守様おちかんさまの深い森で突然、呼びかけてきた声の正体は精霊や神様のたぐいではなかった。


 名門お嬢様女子校の生徒会長こと万代橋奈夢子ばんだいばしなむこ、彼女が森の中に建つ一軒家の窓から僕の前に姿を現したんだ。


 こちらに見せてくれた魅惑的な笑顔は船乗りたちを惑わせて遭難させた逸話を持つ妖精ローレライを思わせる。


「な、奈夢子さん、どうして森の中の家にあなたはいるんですか!? それにその胸……」


 ……なじかは知らねど心わびてしまった。


 まさにローレライの物語の一節はいまの自分の心境を表している。心わびてとは古い言い回しかもしれないが、彼女の微笑みは僕をもの悲しい気持ちにさせる魔法みたいだ。


「宣人って呼んでもいいよね。私のほうが年上みたいだし。あっ、けっして先輩風を吹かすわけじゃないのよ」


 彼女はとても明るい声で僕の名前を呼んでくれた。不思議な気分だ。これまで年上の知人は周りにほとんどいなかったので、くん付けの呼称は何だか照れくさいな。


 自分の母親と幼いころに死別している関係もあるだろうが、本来受けるであろう年上の女性からの愛情をずっと知らずに育ってきた。奈夢子さんとはひとつしか年齢差がないはずなのに、どうしてこんなに胸が痛くなるんだろう……。


 僕の中にマザコンの属性があるとは思いたくない。じゃあ年上の優しいお姉さんに弱いのか!?


 開けてはならない性癖の扉にうっかり手を掛けてしまったような後ろめたい気分になり、思わず頬が熱くなるのが自分でも感じられた。


「お~い、宣人くん!! 私の声がちゃんと聞こえてる? そうだ、約束の時間に遅れて本当にごめんなさい。予期せぬ出来事が起きて巫女の衣装から着替える時間が取れなかったの。いまからすぐに降りていくからそこで待っててね!!」


 巫女さんの衣装から着替えられない出来事っていったい何だ? それに僕の見間違みまちがいでなければ、家の窓から身を乗り出した彼女の胸元には陰キャの自分を瞬殺出来そうな凶暴なが存在していた。ヤバいな、そんな姿をもっと近くで目の当たりにしたら果たして平常心を保てるのだろうか!? まったく自信がないぞ……。


「宣人くん、お待たせ!!」


 重厚な造りの玄関ドアが開き、奈夢子さんが僕の前に姿を現した。こちらの視界に彼女の巫女装束の白が飛び込んでくる。


 ごくり……思わず生唾を飲み込んでしまった。


 陰キャ特有の邪眼じゃがんで彼女の胸をじろじろ見たりしてはいけない!! 興奮と罪悪感が頭の中でないまぜになり、思わず奈夢子さんから目をそらしてしまった。


「……宣人くん。どうしたの? そんなに身を固くして怖い顔しないで。オリザさんについての話し合いといっても別にケンカをするわけじゃないんだから」


「僕はそんなつもりじゃないんですけど。えっ!? ……なんだ巫女装束の上にベンチコートを羽織っているんですか」


 相手に対してやましい気持ちを覚えた罪悪感にさいなまれていた自分は彼女の姿をみて拍子抜けしてしまった。本来のボリュームを取り戻した胸は黒いベンチコートの下に隠されてしまっていたからだ。


 美人で巨乳な生徒会長を前にしているからってのぼせ過ぎだぞ。少しは頭を冷やせ宣人。


「そうね、巫女の格好か。言い訳にならないけどこれが約束に遅れた原因なんだ。本当にごめんなさい」


 幸いなことにこちらの興味が彼女の胸にあると気がつかれなかった。僕が巫女装束に注目していると思ったのか。


「奈夢子さん、いったい何があったんですか?」


「宣人さんはすでに気ついていたかもしれないけど、私の名字である万代橋家は代々、この場所にある久里留神社に仕える身なの。あなたたちには便宜上バイトって説明したけど、こうして元日から巫女をやっているのも家業の手伝いだから……」


 僕は彼女の話には別に驚かなかった。その点については事前調査で親父から聞いていた。


 万代橋家といえばこの辺りの地域では知らない者はいないだろう。古くは江戸時代から名主として栄え、その後もこの地方で権力を持っていたという。しかし権力を掌握していたと言っても決して悪名ではなく、庶民の暮らしを守るために尽力していた名家の誉れ高い一族と聞いている。


「……謝らなければならないのは僕のほうです。万代橋家については事前に調べて知っています。あなたをまだ信用出来なくて。こそこそ嗅ぎ回ったりしてすみませんでした」


「それは仕方のないことよ。だからそんなに暗い顔をしないで。オリザさんと私の関係性が分からないうちは宣人さんも安易に気を許さないでしょうから」


 奈夢子さんはふっ、とため息をついた。そのうつむき加減な表情に陰がさしたのは僕の気のせいだろうか?


「どうして巫女の格好が僕たちとの約束に遅れた原因なんですか?」


「宣人さんは地元の人だから巫女舞って知ってるかしら」


「もちろん知ってますよ、元旦の恒例行事で三が日の間は神様に仕える巫女さんが神楽にあわせて舞を踊るんですよね」


「その通りね。私が約束に遅れた原因は巫女舞の踊り手が足りなくて時間が午後に押してしまったの。そしてもうひとつの理由は宣人さんに言うのが恥ずかしいんだけど……」


 たしか巫女舞は午前と午後の部に分けて複数回開催される。その踊り手に彼女はなっていたのか。でもそんなに人手不足になるものなのかな? 巫女さんは他にも大勢いるはずだけど。


 そして奈夢子さんが恥ずかしがるもうひとつの理由って何なんだ!?


「……胸に巻いたさらしがね。踊りの最中にほどけそうになっちゃったの。だから巫女舞を中断して慌てて家に戻ってきたのがもうひとつの理由なんだ」


 恥ずかしそうに頬を染め、ベンチコートの上から自分の胸を両腕で押さえる彼女。その仕草に思わず鼓動が高鳴ってしまうのを止められない。


「で、でも、そんなトラブルが起きたなら巫女舞を誰か別の巫女さんに頼めば良かったんじゃないですか?」


 こちらの慌てぶりを彼女にさとられないように、素朴な疑問を口にする。


「それは無理なの。この神社の巫女舞は年間を通して踊り手の人数が決められているから。急に変更は出来ないんだ。時代錯誤と言われるかもしれないけど厳しいしきたりが存在するの」


「厳しいしきたりって!? じゃあ奈夢子さん。今年はあなたの他には踊り手がいないんですか」


「……神聖な巫女舞を踊る資格は成人前の女性で、この神社にゆかりのある者に限られます。今年の踊り手予定者はふたり。正確に言うならば去年までは存在していました」


 正確には踊り手が去年まで存在していたって!? いったいそれはどういうことだ。


「その踊り手は私の前から突然姿を消してしまったんです」


 奈夢子さんはいったん目を閉じて何かを考え込む様子に見えた。重い沈黙がお互いの間を漂う。


「奈夢子さん、その人の名はもしかして!?」


 さしむかいの彼女、その形の良い薄桜色の唇がゆっくりと言葉を紡ぎ始める。


「巫女舞のもうひとりの踊り手は犬上いぬがみオリザさんだったんです……」

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