君が僕に与えてくれる幸せな重み。

 まさに光陰こういん矢の如し。その例えはいまの僕にあてはまるだろう。月日が過ぎるのは矢のごとく速いという言葉の意味だが、自分を子犬だと思いこんだ謎の美少女、オリザが僕のベッドにもぐり込んでいたあの衝撃の夜から一ヶ月が過ぎようとしていた。


「……こんな夜中に目が覚めるなんて。ふうっ、眠りが浅い証拠だな」


 手探りでベッドの枕元にあるセンサーライトのスイッチを入れる。光量のまぶしさに思わず目がくらむ。フレキシブル素材になっているライトの角度を変えた先には白いもふもふした物体が照らし出されていた。


 僕の眠りが浅い理由わけ。その正体が気持ちよさそうに布団の上で寝返りを打った。


「……むにゃむにゃ、オリザはもう食べられないよ」


 僕の布団の上に彼女は乗っかったままの状態ですやすやと眠っていた。おまけに寝言までつぶやいているじゃないか。どうりで寝苦しいはずだ。オリザはまるで子犬のように丸くなった姿勢のまま布団に顔をうずめている。すっかりトレードマークになった白いもふもふファーの犬耳付きパーカー。柔らかそうな服の素材が上掛けの毛布と同化してみえる。


 天音と同じ部屋は寝言が耐えられないって、自分のことを棚にあげてないか? オリザだって結構寝言を口にするぞ。まあ声のボリュームは天音よりも小さいけど。


「……ご主人様ぁ、お散歩」


 ほらまた言ったぞ。最初は本当に彼女から呼びかけられているのかと驚いたが、それが寝言とわかってからはあまり気にならなくなった。それよりも同じベッドでオリザと一緒に眠ることに当初かなり抵抗があったのは事実だ。


 僕もいちおう健康な男子高校生だ。いくらご主人様と愛犬の関係とはいえ、外見は黒髪清楚な女子高生とベットを共にするなんて、間違いが起きない自信がなかった。


 だけどそんなやましい気持ちはすぐに打ち消されることになる。その出来事が起こったのはオリザが天音の部屋で寝なくなって、僕の部屋で夜も一緒の同棲生活を初めてから五日目の夜だった。



 *******



 同じベッドで眠るオリザに背をむけて、片時も眠れない夜を数日間過ごした僕は完全に寝不足だった。学校でも祐二から心配されるほどボロボロな状態で疲労はすでに限界を迎えていた。


「これは寝ないと完全に命取りになりそうだな……」


 ふらふらとした足取りで帰宅した僕はそのまま着替えもせずベッドに倒れ込んだんだ。泥のように深い睡魔に連れていかれるのに時間は掛からなかった。


 ……額に押し当てられる暖かい感触に目が覚める。連続で何時間眠ってしまったんだろう?


 寝起きでぼやけた視界の隅に映った掛け時計の時刻は深夜の二時過ぎを指していた。着替えどころか食事も取らずに眠りこけていたのか。慌ててベッドから起きあがろうとした瞬間。誰かに身体を押さえつけられた。


「なっ……。オリザ!?」


「わん、動いちゃだめ。ご主人様、身体の具合が悪い。オリザには匂いでわかるからまだ寝てて……」


 細い指先がそっと僕の頬をなでる。そうだった。子犬になりきっているだけじゃない。オリザは優れた嗅覚を兼ね備えているんだ。どうして人間の彼女にそんな不思議な力があるのかはまだ定かではない。だけど月夜の晩にお泊まり会のみんなが揃っている前で、猫森未亜ねこもりみあちゃんの行方不明になった母親の匂いを手紙から嗅ぎ取ったのは周知の事実だ。


「……ありがとうオリザ。やっぱり君は匂いで人の状態が分かるんだね」


「わん、だって私は犬だもん。でもなんでご主人様は夜に寝なかったの? それは本当にだめ。身体に怖いことがおこる」


 それは彼女のいうとおりだ。医者の父親からも顔色の悪さをかなり心配されていたんだ。だけど僕は平気だと虚勢を張ってしまった。頭痛や耳鳴りまであったというのに……。


「オリザ、もしかして君は僕を心配してずっと付きっきりで看病をしてくれたのか?」


「ご主人様を寝かせるために、部屋にはこないでってお父さんや天音にはオリザがいったの……」


 額に押し当てられた感触は濡らしたタオルだった。寝不足で体調を崩し熱発を起こしていた僕を彼女は献身的に看病してくれたんだ!!


 まるで子供を心配する母親のように……。


 これまで自分の中に渦巻いていた汚い欲望が瞬時に消えてなくなるのを感じた。決して男女のそういう行為を否定するわけではないが、相手を思いやる気持ちもなくただ自分の欲望のおもむくままに行動するのは何か間違っている。


「……オリザ、僕は君のご主人様失格だな」


「いまはなにも考えずに眠るのが大事。言いたいことはぜんぶ匂いでわかる。ご主人様の中でオリザに対する好きの匂いが変わったから」


 たしか以前にも未亜ちゃんの匂いを嗅いで似たようなことを言っていたな。人間の好きという感情を嗅覚で認識出来る不思議な力。その匂いに違いがあるのかはオリザにしか分からない。だけど今は彼女の言葉を信じてもいい。


 自分の中で彼女に対する好きの感情の形が変化しているのは間違いがないのだから……。



 *******



 その日以来、オリザと同じベッドで眠るのに特別な感情を抱かないようにした。それは決してやせ我慢なんかじゃない。彼女がおりこうさんで飼い主の僕に接してくれるなら、それに対して真摯な態度で向き合わないのは人としてそれこそ失格だ。


 だから僕はこれからもオリザのことを大切にしたい。彼女の心も身体も安易に汚したりしてはいけない。


 彼女の失った記憶が戻ってもお兄ちゃんは平気なの!? オリザが元の状態に戻ることは別れを意味するんじゃない……!! 妹の天音から投げかけられた厳しい言葉が頭の隅をかすめる。だけど本当の事実を思い出した後の彼女と向き合う決意をした。


 自分を子犬だと思いこまなければ精神の均衡が保てなくなるほどのつらい過去。僕の能力が初めて通用しなかった少女。固く閉ざされた禁断のパンドラの箱に手を掛けた結果がどんなものかは想像もつかないが、オリザの瞳の奥に隠された悲しみの色を取りさってやるのは飼い主たる僕の役目だから……。


「……わたしのことを可愛いねって見知らぬおばあちゃんからお散歩中にほめられたんだ。ふふっ嬉しいな」


 ほらまた寝返りを打ちながらオリザが寝言をつぶやいたぞ。きっと僕とお散歩でもしている夢を見ているんだろう。


 今日は大晦日だ。家の大掃除はあらかた済ましているが、いよいよお泊まり会のメンバーで本格的な調査が始まるんだ。各人が持ち寄った情報を精査するために我が家で集まる約束をしている。きっと朝から忙しくなるぞ。もう少し僕も眠るとしようか。


「……ちゃんと毛布を掛けないと風邪を引くぞ」


 枕の場所から正反対にもふもふの頭をむけているオリザ。その身体にしっかりと毛布を掛けてやる。


「……ふぁあい、ご主人様」


 これは寝言だよな。心配になって顔を寄せてみる。すっぽりと頭に被った犬耳付きフードの下の寝顔。すやすやとした呼吸が僕の耳に届く。……ほっ、こちらの声は聞こえてはいないようだ。


「おやすみオリザ」


 彼女の身体の幸せな重みを布団に感じながら僕はもう一度眠りについた。



 次回に続く


 ☆☆☆作者からのお礼とお願い☆☆☆


 この度はお読み頂き誠にありがとうございました。


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 ブックマークも何卒よろしくお願いいたしますm(__)m



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