猫の手も借りたい僕へのおまじない。

 僕――猪野宣人いのせんとは自分の名前が嫌いだ。


 そのふざけた語呂あわせのような響きにこれまでずっと悩まされ続けてきた。英語のinnocentにちなんで両親が僕につけてくれた名前。


 意味合いとしてはとても素晴らしい。日本語で無垢とか無邪気を指す名前だが、皮肉なことに僕が小学校のころから文字通り他の無邪気な子供たちにからかわれる対象となってしまったんだ……。


 俗にいうキラキラネームみたいな変わった名前。保育園のころはまだ気がつかなかった。小学校の入学式で起こった最悪な出来事を僕はいまでも鮮明に覚えている。


「……猪野宣人くん」


「はいっ!!」


 式典のさなかに僕の名前が新入生として読み上げられた際、体育館に巻き起こった失笑は忘れない。自分の名前が変わっていると思い知った瞬間だった。


 それ以来僕は名前の話題になると口ごもるようになってしまったんだ。未亜ちゃんと初めて長く会話を交わした日も、自分では顔に出ないように注意したつもりだったが、繊細な彼女の目には見透かされていたに違いない……。


「未亜はまだ名前の由来を教えて貰っていません……。あれから何度もお泊まり会で宣人お兄さんと会う機会はあったのに」


 そうか思い出したぞ!! 彼女と以前に約束したんだ。僕の名前の由来について、未亜ちゃんが家に遊びに来たらいつでも話すよと言ってそのままになっていた件だ。ここ最近はオリザの件にかまけていてすっかり忘れていた。


「……み、、未亜ちゃん、ごめんね。君との約束を僕は忘れてしまって」


「仕方がありませんよ、宣人お兄さんは私の母親探しの件についても、一生懸命になって事前準備をしてくれましたから。それには心から感謝しています」


 いつまでも約束を果たさない僕に対して、未亜ちゃんは憤りの感情を投げかけてきたのかと最初は思ったが、それはどうも違う様子だ。その表情はとても穏やかで子猫のような澄んだ瞳でこちらを見据えている。 


「私はわがままを言いたいわけじゃないんです。自分も変わった名字だから特に感じるんですけど、以前、名前の話題が出たときのお兄さんの態度がとても気になったんです。なにか過去のかさぶたに触れられるような表情に見受けられました」


「未亜ちゃん、それは……!?」


 まさに彼女の言うとおりだった。


「私は宣人お兄さんを困らせるつもりはありません。だけどもっと知りたいんです。あなたの抱える悩みも全部」


「どうして未亜ちゃんは僕のことをそこまで心配してくれるんだ!?」


「……だって私はお兄さんのことが」


 彼女とつないだ僕の左手にぎゅっ、と力が込められるのが感じられた。


「ねえねえ、ふたりの世界に浸らせてあげてたけどちょっと長すぎない……。オリザちゃんの下着、可愛いのを見繕うってお買い物の目的を忘れていないですかご両人は……!!」


 未亜ちゃんが僕に何かを言い掛けた瞬間、背後から声を掛けられた。


 香菜ちゃんがお買い物かごを抱えながら僕らを遠巻きに見つめていた。かごの中には色とりどりのブラやパンツの上下セットがすでに複数入れられている。


「ああっ香菜ちゃん、ごめんなさい。今すぐいくから待っててね!!」


「いいよ、未亜先輩。もう少し宣人さんと話していても。ちょっとからかってみただけだからさ。うまくいってるみたいで私も嬉しいよ!! この結果は天音ちゃんに後で報告せねば……」


「香菜ちゃん、それは言わない約束でしょ!! 先輩をそれ以上からかうと本気で怒るから」


「うひゃあ、調子に乗りすぎちゃった。未亜先輩は部活でも怒らせると怖いからな。すいませ~ん」


「絶対に許さないんだから。なんて!! 嘘だよ香菜ちゃん、わかればよろしい」


「あははっ、良かった。じゃあ私はもう少し可愛い下着を探しにいってくるから後で声を掛けてね」


 卓球部の先輩と後輩。その仲の良いやり取りを隣で眺めていると微笑ましい気分になるな。天音の奴もいつもこんな会話をしているんだろうか。


 香菜ちゃんの背中を見送った後、僕たちは再度おたがいに向き合っていた。握った手はそのままだ。


「えっと未亜ちゃん」「あの、宣人お兄さん」


「あっ、ごめん。そっちから先に話してよ」


「いえいえ、お兄さんこそ先に話してください」


 偶然に会話の切り出しが重なってしまった。何だ、この気まずい雰囲気は!? 握りしめたままの手も冬だというのに汗ばんできたぞ。まるで心臓が手の中に瞬間移動したみたいにドキドキするのはなぜだ……。


「……言葉つながりなおまじないって何なの?」


「あっ、そうでした。私ったら恥ずかしいな……。名前の話しになってうやむやになってしまって」


「僕に手を差し出してってとこまで聞いたよ」


「じゃあ続きをやりますね。だけど絶対に笑わないって約束してください」


「未亜ちゃんのには慣れているから僕は笑わないよ」


「ふふっ、そうでしたね。繰り返しはお笑いの基本ですからお約束を言っちゃいました!!」


 僕たちはやっと笑いあいながら会話が出来たな。この楽しい時間が続いて未亜ちゃんにもっと元気を取り戻して欲しい。


「下着屋さんで借りてきた猫状態の宣人お兄さん。困ってしまってにゃんにゃん泣いてます。それを見かねた私、猫森未亜がおまじないを掛けてあげます!!」


 童謡のような節回しといっしょに彼女が僕の空いている右手に自分の左手をそっとかざした。子猫のような未亜ちゃんの仕草はめちゃめちゃ可愛いぞ!!


「猫のおまわりさんがお兄さんにやさしく声を掛けます。ねえ君!! そんなに泣くとおめめが涙といっしょにおっこっちゃうよ。僕がおまじないを掛けてあげるからもっと元気を出して」


「み、未亜ちゃん!?」


 握りしめた僕の手を彼女は不意に自分の上半身へと引き寄せた。柔らかな白いセーターの布地にこちらの指先が触れ。自分の胸が最大級に鼓動を刻み始めるのが感じられた。


「これがお兄さんへの元気が出るおまじない。借りてきた猫の手、ならぬ猫森未亜ねこもりみあの手です!! なんちゃって……」


「……か、借りてきた猫森って!?」


 お互いの顔をまじまじと見つめ合う。彼女のまるで子猫のような大きな瞳の中には驚いた表情の僕が映っていた。


「ぷっ、あはははっ!! 未亜ちゃん、おまじないってまさかその冗談をいうために?」


「あ~~!! 絶対に笑わないって約束しましたよね。宣人お兄さんの嘘つき……」


 頬を膨らませながら、こちらに抗議の顔ををみせる未亜ちゃん。


 猫の目がくるくると変化するような多彩な表情をみせる彼女に、思わず笑いがこぼれてしまった。励ますつもりが反対に僕は元気を貰っていたのか。


「……今度ふたりっきりになる機会があったら、そのときに教えてくださいね。宣人お兄さんの名前の由来について」


「ああ、今度こそ忘れないよ!! じゃあそろそろ行こうか。香菜ちゃんがしびれを切らす前にさ。それに今日はクリスマスイブだ。お買い物を済ませたらうちに集まろう!!」


「えっ、いいんですか? 天音ちゃんのおうちにお伺いしても」


「ああ、そのために食材もそろえに来たんだ。全部天音の計画だけどね。まあ下着のおつかい作戦は予想外だったけど。祐二もどうせ呼ばなくても今夜はうちに来るだろうし。香奈ちゃんにも後で話すからさ」


「……クリスマスイブ、楽しくなりそうですね!! オリザさんも喜ぶといいな」


「それはきっと大丈夫だよ。おいしいおやつに可愛い下着のクリスマスプレゼントを用意して帰るんだから」


 嬉しそうな未亜ちゃんを見ていたら、自分の中に幸せな気持ちが急速に膨れ上がってきた。なにも物質的なプレゼントだけじゃない。人を本当に幸せに出来る物は相手を思いやる気持ちのこもった贈りギフトなのかもしれない……。


 クリスマスイブのお泊まり会か。おっとその前にオリザを長い散歩に連れていかないと、彼女は車で僕の帰りを首を長くして待ちわびているはずだから。

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