蒼に染まる深い海。君と僕をつなぐ七色の絆にかざした指先。
はあっ、はあっ、息が苦しい。まるで深い海の中にいるようだ。身体が鉛のように重く感じられる。必死でもがき続ける僕の手足には黒い藻のような物体がまとわりつく。
がはっ!? げほっげほ!! い、息が出来ない……。ここで僕は
幼い頃に親父と出かけた海釣りで、釣り船から誤って海に落ちた体験が僕の脳裏にまざまざと蘇ってくる。海面に落ちた瞬間、自分を取り巻く景色が深い蒼に染まる恐怖。それと同時に勢いよく立ち込める泡の白さが一瞬で視界を遮った。救命胴衣を着けていない子供の身体は瞬時に沈み始め上下の感覚さえも同時に奪い去っていく。
……黒い藻がまるで長い髪の毛のように自分の身体にまとわりつく嫌な感触。あの日の海と同じだ。
おとうさん、たすけて……!!
頭に浮かんだ助けを求める懇願も言葉にすることが出来ない。大量の泡となって唇の端から吐き出されてしまう。そして僕が藻だと思いこんでいた物の正体を理解した。あの不快な手触りは大鎌を振りかざした死に神の黒衣に触れてしまった感触だったのか。
僕をとりまく深い海。その蒼色を埋め尽くすように辺り一面の視界が漆黒に染められていく。これで一巻の終わりなのか……。
最後なんて案外あっけないものだな。あれほど自分の持つ
他人の記憶に深入りするといつか取り返しのつかない事態にみまわれる。危険なフリーダイビングの要領で記憶の海に最大深度まで潜ったら、現実世界に取り残された肉体に精神が戻ってこられなくなるのは自分の中で推測していたというのに。
ちくしょう、その推測は図らずも僕の死をもって証明されてしまうのか……。
頭の中に走馬灯が再生されてもおかしくない状況だ。危機一髪!? いや、とても不思議な気分だ。顔は写真でしか知らないが死別した母親の胸に抱かれているような穏やかな感覚が胸に去来している。
ああ、とうとう終わっちまうんだな。僕の隠キャな十六年の短い人生か。思えば何もいいことなんかなかった……。
変な能力を持ってしまったために他人と関わるのを極端に避け、仲の良い友達すら積極的に作らなかった。ましてや恋人なんて夢のまた夢だ……。自分が悪いのは承知の上だが死ぬ前に彼女のひとりぐらいは欲しかった。いまさら後悔しても仕方がないけど。
こんなつまらない人生に心残りなんかないよな。このまま穏やかに消えてしまうのもありかもしれない。
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……本当にそうか!? 心残りはないと僕は心の底から言えるのか!!
オリザと僕は約束を交わした。君の泣き顔は見たくない、だから笑顔のままの彼女でいてほしいと。
オリザは僕にだけみせる最高の笑顔で応えてくれた。
『わかりました、オリザは約束します。ご主人様の前では泣きません。笑顔のままであなたとずっといっしょに暮らしたい』
それなのに先に約束を破るのはご主人様として失格だ。もしも僕と二度と会えないと知ったら彼女はきっと悲しみに耐えられない……。
「オリザっ……!! 君を残して僕は死んだりしない!!」
……奇跡的に喉から声が出た。
漆黒に包まれた視界のむこう側にひとすじの光が射し込む。ゆらゆらと揺れる海面が明るく照らし出された。
「あれは何だ!?」
海の底、その裏側から仰ぎ見た陽光溢れる海面に何かが姿を現した。色とりどりに編み込まれた細い紐のような物体。その先端が僕にむかって一直線に伸びてくる。漆黒の闇を突き破るまばゆいばかりの輝きを放ちながら。
間違いない、あの紐はオリザのリードだ!!
思わず感極まって海中で目を閉じそうになったが、いまは感傷的になっている場合じゃない。しっかりと目を開けて前だけを見据えるんだ。
リードの先端を掴み損ねないように真っ直ぐ左手を伸ばした。指先に触れるゴツゴツしたナイロン素材の感触。輪になった持ち手をしっかりと掴む。
「君は僕にまだまだ生きろって言ってくれているんだな、オリザ。ああ、すぐに戻るからおりこうさんで待っていてくれ!!」
どうして記憶の海で彼女のお散歩リードが突然姿を現れたのかは定かではない。死にゆく
オリザと僕を繋ぐ細いリード。そのカラフルな紐は彼女の自由を拘束するためだけに存在しているんじゃない。ふたりを繋ぐ絆のような想いが込められている大事なお散歩リードなんだ。
クリスマスイブのお買い物が済んだら、真っ先に君をお散歩に連れて行ってやるから。もう少し車で大人しくしていてくれ……。
*******
「しっかりしてください、宣人さん。私の声が聞こえますか!!」
誰かに激しく肩を揺すられている。まるで糸の切れた人形みたいにだらりと垂れ下がっていた自分の腕に力が戻ってくるのが感じられた。ゆっくりと指先を動かしてみる。頭で考えた指示がそのまま肉体に反映する!! これは自分の身体に戻ってこれた何よりの証拠だ。あの暗い海の底で身体の自由が奪われてた状態から無事に解放されたんだ。顔を上げて辺りの状況を確認する。
「宣人さん、良かった。意識が戻ったんですね!!」
「……か、香菜ちゃん、僕はどうしていた? あれからどれくらい時間が経ったんだ!!」
心配そうにこちらの顔を覗き込む香菜ちゃんが真っ先に視界に飛び込んでくる。どうやら僕が意識を失ってから時間は経過していないみたいだ。僕たちはセンターコートの人混みを離れ通路の脇にある休憩スペースに移動しただけだった。
「まだ動かないでください、すこし頭が混乱しているのかもしれませんね。たぶん宣人さんは気分が悪くなってしまったんじゃないですか。このクリスマスイブの人混みですから具合が悪くなるのも分かります」
「ああ、すっかり迷惑を掛けてしまったんだね。昨晩寝不足だったせいもあるかもしれない」
「だめですよ、冬休みだから夜更かしして倒れちゃうなんて。天音ちゃんに怒られても知りませんから」
「ごめん、今日は早く寝るからさ、うるさい妹には内緒にしておいてくれよ。お願い香菜ちゃん!!」
「うふふっ、宣人さん。心配しないでください。内緒にしますから。それより今日はクリスマスイブですからお家に早く帰れるように、急いでメモに書いてあるお買い物を済ませちゃいましょうよ。香菜もお手伝いしますから!!」
とっさにその場を取り繕う言い訳をしてしまった。んっ、僕の買い物のお手伝いって何を彼女はいったい言っているんだ? まあいいや、それよりも今は気になることを最優先するべきだな。
屈託のない笑顔で笑う香菜ちゃんをみて僕は記憶の中でみた事故現場の風景を思い出していた。
あの交差点で車にはねられた女の子のその後はどうなったのだろうか? そして香菜ちゃんとの関係性は……。
僕は遠回りをせず単刀直入に彼女に切り出してみた。
「ねえ香菜ちゃん、君にお姉さんっているの?」
次回に続く。
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