公園のブランコから降りない少女。宵闇に灯る街灯、消えない過去の記憶。

「ええっ、香菜ちゃん!? 君だったのか……。あれっ、祐二はどこにいるの?」


「もうっ、宣人さん。私を兄貴といつもワンセット扱いしないでくださいよ。お買い物くらいひとりでも出かけられますから」


 こちらの不注意で転ばせてしまった相手は、なんと阿空香菜あくかなちゃんだった。天音の仲の良い友だちでもあり僕のたったひとりの親友、阿空祐二あくゆうじの実の妹なんだ。しかしこのだだっ広いショッピングモールで香菜ちゃんとピンポイントでぶつかるなんて偶然にも程がありすぎじゃないか。自分の持つ引きの強さに良くも悪くも軽い戦慄を覚えた。


「香菜ちゃん本当にごめんね。転んでどこか怪我でもしなかったかい?」


 床にしりもちをついたままの彼女にサッと手をさしのべる。香菜ちゃんの出で立ちはボーイッシュな魅力をさらに引き出すようなメンズアウターのブルゾン。その下にはニット素材のロング丈ワンピースでまとめている。僕が思わず彼女に見とれてしまったのはその服装の可愛らしさだけじゃなかった。


 おやっ、今日の香菜ちゃんはを掛けているぞ!?


 下手なアイドル顔負けな彼女の吸い込まれそうな大きな瞳を、さらに際だたせる細いフレームの眼鏡が顔の中心を彩っていたからだった。


「……あっ、ありがとうございます。私、転んた拍子に大きな声を上げてしまって、、宣人さんに逆に迷惑を掛けちゃいましたね」


「そんなことないよ、前をよく見ず急に駆けだした僕が悪いんだからさ」


 彼女が握り返してくれた手を掴み、そのまま身体を引き上げようとしたその瞬間。


「きゃっ!?」


「ああっ、香菜ちゃんごめん、痛かった!?」


「……ち、違うんです、宣人さんが悪いんじゃない。私が今日は柄にもなくかかとの高い靴を履いていたから、足下あしもとがふらついてしまったんです」


 よろけてしまった彼女の身体をしっかりと抱き留めながら視線を下にむける。たしかに普段の香菜ちゃんと言えばスニーカー系のソールがぺたんこな靴を好んで履いているはずだ。今日は珍しく黒いショートブーツだ。


「ああ、足首がグキッってなったのか。大丈夫? ひねったりして痛くはない……。ぐあっ!?」


 突然の激しい痛みに僕は思わず頭を押さえた。口から漏れ出す悲鳴を堪えるのが精一杯だ。頭痛の理由わけは言うまでもなく分かっている。


「どうかしましたか、顔色が悪いですよ!! あうっ、う、腕が、宣人さんのまわした腕の力が強すぎてちょっと苦しいです」


 僕は油断をし過ぎてしまった自分の行動にやっと気が付いた。知らず知らずのうちにクリスマスイブの華やいだ雰囲気に浮ついていたのかもしれない……。


 遮断する間もなく彼女の持つ記憶が僕の腕から流れ込んでくる。例の能力ちから制限リミッターを掛けなかったのは大失敗だった。小刻みに痙攣しだした指先からまるで毛細血管の隅々まで血液が送り込まれるように、香菜ちゃんの持つもっとも悲しい記憶、その追体験が開始される。


「しっかりしてください、宣人さん、せんとさ……」


 必死に耳元で呼びかけを続ける香菜ちゃんの悲痛な叫び声が次第に小さくなってくる。入れ替わりに暗闇が頭の中を支配し、僕だけしか観客のいない球体スフィアの形をした映画館にて悲しい記憶の上映が開始される。



 *******



 ……ここはどこだ? 僕は何か固いコンクリートのような建造物の上に仰向けに横たわっている。慌てて辺りを確認しようと上半身を起こそうとするが、まるで金縛りにでもあったように身体が動かない。


「か、香菜ちゃんはどこにいる? この球体の中に記憶の登場人物として彼女は必ず存在するはずだ」


 かろうじて発した言葉により乾ききった口腔内に湿り気が戻ってくる。首から上だけはなんとか動かせそうだ。僕の視る能力。その記憶の見え方が違うのには理由がある。これも過去の実証実験で得た知識のひとつだ。


 僕は便宜上、相手の記憶がこちらに流れ込むという表現をこれまで使ってきたが、能力の発動時、実際の感覚として正確な表現は深い海にダイビングするような状態なんだ。それも素潜りで深海までフリーダイビングするような息苦しさと恐怖感、それらがない交ぜになって僕の心と体に襲いかかってくる。その特異な形状から球体スフィアと名付けた閉鎖空間。他人の記憶を傍観者として眺められる映画館のような状況は、まだ浅い場所にいる証拠だ。僕の考えた定義で記憶の海。その浅瀬の中で視た風景だと仮定したら。


「……まいったな。今回はレベルファイブかよ」


 僕は思わず独り言を漏らさずにはいられなかった。


 これまで自分が経験した中では、今回の記憶の見え方は最大深度で間違いないだろう。


 ひたいに汗が流れるのを感じる。僕が倒れているコンクリートと身体の間、首筋にかけてそよ風が吹き抜ける感触!? この場所は……どこかの河原なのか!!

 

 必死の思いで頭を持ち上げ辺りを見回した。ここは見知らぬ場所ではない。僕の家の近所には大きな公園があり、その中にある遊歩道に沿って川が流れている。見覚えのある彫刻のモニュメント。その脇にある遊具。そこのブランコと滑り台で天音とよく遊んだ記憶が鮮明に蘇ってきた。どうしてこの公園の風景が現れるんだ。 


 それも香菜ちゃんが持つもっとも悲しい記憶の中に……!?


「……香菜、もうすぐ日が暮れるからブランコから降りなさい。お家に帰らないとお母さんから叱られちゃうよ。お姉ちゃんは一緒に謝ってやんないからね」


「香菜、もう少しブランコで遊びたいの!! うるさいお姉ちゃんなんか嫌いだ。先に帰っちゃえばいいのに……」


 これは幼い香菜ちゃんの声だ。呼びかけているもう一人の女の子は誰だ? たしか彼女にはお姉さんはいないはずなのに……。くそっ、こちらからの視界が狭くて二人の女の子の顔が良く見えない。


「……お姉ちゃん、どこに隠れているの? 本当に帰っちゃうなんて……。いやだよ!! 香菜をひとりぼっちにしないで!!」


 しばらくして辺りはすっかり暗くなり公園内も街灯に照らし出されてくる。僕の狭い視界にはブランコから降りて呆然と立ち尽くす幼い香菜ちゃんの小さな運動靴の先しか映らなかった。怯えた声の調子からひとりだけ公園に取り残された心細さが伝わって来る。


「嫌だっ!! お姉ちゃん怖いよ!! ひとりじゃあ香菜お家まで帰れない……」


 香菜ちゃんの金切り声が辺りの空気を震わした。可哀そうに、きっと極度のパニック状態に陥ってしまったんだろう。その場から勢いよく駆け出す小さな足音が僕の耳に飛び込んできた。だめだ、その方向には車の往来が激しい国道がある。幼い女の子だけで交差点を歩かせるのは危険すぎる……。


「さっさと動けよ、この役立たずの身体が!!」


 コンクリートの地面にまるで強力な接着剤で貼り付けられたかのような不甲斐ない僕の身体。香菜ちゃんの悲痛な叫び声を耳にしているというのに、でくのぼうみたいにずっと動けないままなのか!?


 けたたましい車のクラクションが何度も鳴らされ、その直後タイヤのスキール音とともに金属が何かに激突するような擦過音さっかおんが表通りに鳴り響いた。


「くそっ、動けよ、僕の腕!!」


 渾身の力を両手に込めて地面から重い身体を引きはがした。何とか立ち上がることに成功した。


「香菜ちゃん!?」


 国道にむかって駆け出した僕の目に飛び込んできたのはまさに最悪の光景だった。


「いやああああっ。お姉ちゃん!! 死んじゃやだよ……。お願いだから目を開けて!!」


 片側二車線の国道、公園前の交差点中央には無残にボンネット前方部分がひしゃげた車の先に女の子ふたりの姿を遠巻きに確認した。車の激しい損傷がぶつかった際の衝撃の強さを物語っている。横断歩道には香菜ちゃんのお姉さんが乗っていたであろう自転車が横倒しになっていた。ひしゃげた前輪があらぬ方向に曲がっている。交差点で信号待ちしていた人たちや、他の車から降りて来た運転手が次第に事故現場に集まって来るのを僕はただ呆然と眺めることしか出来なかった。


「おい、誰か救急車を早く!! 女の子が車にはねられた」


「歩道の信号は赤だったのに、小さな女の子が突然交差点に飛び出して来てさ。それを守ろうとして自転車から飛び降りたお姉ちゃんが事故にあったんだ。俺はこの目でちゃんと見てたぞ!!」


「馬鹿野郎!! いまはそんなこと言っている場合じゃないだろ。とにかく一刻も早く救急車を呼ぶんだ!! 早くしろ、はねられた女の子が助からなくなるぞ!!」


 事故現場は混乱を極めて口々に怒号が飛び交っている。


「か、香菜ちゃん……」


 半狂乱になり泣き叫ぶ幼い少女のもとに駆け寄ろうとした瞬間、目の前に立ちふさがっていた野次馬の男性が文字通り僕の身体をすり抜けていった。まるでその場に何も存在しないかのようにお互いの身体がぶつかりもしない。


 ……過去の記憶には直接、手を触れたり干渉することは出来ない。そんな事実ルールはとっくの昔に知っていたというのに僕は叫ばずにはいられなかった。


「ここで死んじゃだめだ!! きっと香菜ちゃんの大事な家族なんだろう。幼い彼女にもっとも悲しい記憶を植え付けないでくれ。頼むから……!!」


 遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。事故現場の交差点からは最寄りにある君更津総合病院まで近いはずだ。一縷いちるの望みがあることを強く願う。


 ……ああ、もう時間切れだ。


 次第に薄れていく記憶の映像にむかって僕は深い祈りを捧げた。神様、どうか彼女を助けて下さい……。



 次回に続く。




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