お兄ちゃん、私が一日限りのお風呂係になってあげる♡

 浴室にもうもうと立ちこめる湯気にさえぎられ、こちらの不鮮明な視界の隅には鮮やかな肌の色だけが映り込む。


「まともに真正面から妹の裸を見ちゃだめだ!!」


 とっさに僕は妹の天音の裸体から顔を背けようとした。


「うふふ、そんなに身体を固くしちゃってさ。本気まじでウケるんですけど。目を閉じなくても平気だよ、宣人お兄ちゃん!! 天音は別にまっ裸じゃないし……」


「お、おい天音!? ちょっと勘弁してくれよ、お前が良くてもこっちは困るんだからさ……」


 濡れても大丈夫なように黒い学校指定のスクール水着を着ているのか。ああびっくりさせやがるぜ……。だけども天音の格好をよく見ると水着の上にはゆったり目のTシャツを羽織っているが、下半身はすらりと伸びた白い足が露わになっているから、これはこれでかなり目のやり場に困るぞ……。


「お背中、お流ししましょうか? !!」


「ちょっ、調子に乗りすぎだぞ天音!? オリザの口調を真似すんなぁ!!」


「てへっ!! バレたか。お兄ちゃんの願望を叶えてやっただけたよ。本当はオリザといっしょにゆず湯のお風呂に入りたかったんだろうしさ」


「まあ、その願望がないと言ったら健康な男子としては嘘になるけど……」


 天音がボディスポンジを片手に持ち僕の背後へと回り込む。


「い、いいよ!? 背中くらい自分で洗えるから……」


 急激に頬の熱さを感じる。洗い場の鏡に映る自分の顔が真っ赤に染まっているのは何も風呂場の熱気にのぼせただけじゃない……。


 背後に立つ天音の姿勢が問題なんだ。僕の前にある洗い場の鏡が曇り除去機能のついた最新型なのがあだになる。最近自宅の水回りをリフォームして親父自慢の風呂場に新調したばかりなんだ。


 天音の姿が湯気の中でもはっきりくっきりと目の前の鏡に映し出されてしまうから……。


 タイルの床に片膝をついてボディーソープの容器からスポンジに液体を絞り出す指先の妙に艶めかしいしぐさ。


 だぶだぶのTシャツからのぞく小ぶりな胸の谷間。かがみこんでいる格好のせいで天音の白い肌についた水滴が胸元に流れるさままで鏡に映りこんでしまう。


「じゃあお背中お流ししますね、お兄ちゃん♡」


「ええっ!? 天音、お前はオリザのお風呂係じゃないのかよ!! なんで兄貴の僕にむかってそんな甘い猫なで声を出してんだ。そ、それじゃあ駄目じゃないか……」


 ……本当は、めちゃくちゃ可愛いじゃないか。そう言いかけてしまったんだ。


「お兄ちゃんはやっぱりオリザといっしょにゆず湯に入るほうが嬉しかったのかな? なんて思ってね、ちょっと試してみたんだ。どんな反応するのか」


「お、お前が朝、冗談で僕に言い出した話だろ!!」


 照れ隠しに思わず語尾が荒くなってしまう。鏡に映る天音は黙ったままだ。

 気まずい沈黙に耐えかねて僕が口を開こうとした瞬間。


「なっ……!?」


 予想外の妹の行動に僕は心臓が止まるかと思った。


 天音は自分の身体全体で僕の背中を抱きすくめてきたんだ。肩にまわされる腕。背中に押し当てられる水着越しの胸。そのあまりの柔らかい感触に驚いてしまう。妹の熱い吐息が僕の耳にかかる。


「ねえ、宣人お兄ちゃん。オリザが初めて家に来た日のこと覚えてるかな」


「ああ、忘れろったって忘れられないよ。天音それがどうした?」


「その日の朝、洗面所で天音がちょうど今みたいにおんなじ姿勢でお兄ちゃんに抱きついたでしょ」


「そうだったな、僕の首に腕をまわしてお前はじゃれついて来たんだよな」


「私、謝らなければならないことがあるの。これまで天音がふざけた振りをしてじゃれつくたびにあのを使って宣人お兄ちゃんの心の中をこっそり覗いていたんだ。いけないと分かってはいたけど、大切な家族だけには昔の友だちみたいに嫌われたくなかったから。今まで隠していて本当にごめんなさい……」


 背中に天音の胸の鼓動を感じる。思わず僕は首すじにまわされた手を握り締めてしまった。小刻みに震える細い指先から妹の抱え込んでいた不安げな想いが痛いほど伝わってきた。


「……天音、じつはお前だったんじゃないのか? あの日の洗面所で僕の頭の中に直接語りかけできた声の主は」


 途切れていた点と線が繋がった感覚を覚えた。あの日の朝、洗面所で僕をさとしてくれた不思議な女性の声。例の能力を正しく使えと導いてくれた。あれは妹の天音だったのか!!


「お兄ちゃん、お願いだから私の気持ちが落ち着くまでしばらくこのままでいさせて。これが終わったらいつもの天音に戻るから……」


 後で考えれば天音がなぜ突然お風呂に入ってきたのか良く理解出来る。突拍子もないその行動の意味も。だけどその時の僕は妹の抱える想い、そのすべてを分かってやれなかった。



 *******



「ふうっ、ゆず湯の香りですっかり気持ちが整ったぁ!! もう大丈夫、いつもの天音だよ。あ、そうだ!! オリザちゃんに人間の身体について色々な質問をされてたんだ。ちょうどいい機会だから私もしっかりとお勉強しなきゃ。男と女じゃあ身体の作りも全然違うもんね。お、に、い、ちゃん♡」


「お、お前。どこを見てんだよ!? 視線がしたすぎんだろ!! 人の身体をじろじろ見るんじゃないよ」


「うふふっ、お兄ちゃんったらいまさら何を照れてんの!! 天音とはこれから晴れてを正しく使って以心伝心になるんだから、お風呂ぐらいで恥ずかしからないでよ。ねえ、今後もたまにはこうやって裸の付き合いしよっか♡」


「馬鹿っ、やめろ天音!? どこに手を伸ばしてんだ。こらっ!!」


 いくら実の妹とはいえに手を出されては大変なことになってしまう。慌てて前を両手とタオルでガードした。無邪気な子猫がじゃれつくように天音はさらに手を伸ばしてきた。泡だらけのスポンジ攻撃だ。


「うりゃ、うりゃ、前を隠さないの!! にすべてを委ねなさ~い!!」


「こらあ~~!! 調子に乗るなぁ!! いい加減にやめろお……」


 すっかり身体中を泡まみれにされてしまった。何とか下の部分である最後のとりてだけは死守出来たが……。


「お兄ちゃんは身体を良く洗わないから後で浴槽の掃除が大変なんだよ。浴槽を洗うのはいつも天音なんだから……」


「わ、わかったよ……。急に所帯じみるんだな」


 タオルでしっかり前を隠しながらしぶしぶと背中を向ける。

 前に続いて僕の背中を洗い始める天音。


「ちっちゃい頃は一緒にお兄ちゃんとお風呂に入ったよね、湯船にアヒルちゃんを浮かべて遊んだっけ……」


「そうだな、懐かしいな……」


 天音が小学校三年生くらいまでは一緒にお風呂に入っていた記憶がある。やめてしまった理由は僕が当時の同級生から言われた言葉にかなり傷ついてしまったからだ。


『えっ!? まさかお前、まだ妹と風呂に入ってるの!!』


 学校でからかわれてめちゃくちゃ恥ずかしい思いをしたんだ。その夜一緒にお風呂に入りたがる妹にむかって投げかけた心無い言葉。


『天音、もう一緒にお風呂には入らないし、僕の遊びにも絶対についてくるな……』


 そう冷たく僕は妹に言い放ってしまった。必死で涙をこらえる天音の悲しそうな表情が今でも忘れられない……。


「はい!! 宣人お兄ちゃん、お風呂係の役目は終わりだよ」


 天音がポンポンと僕の背中を叩く。


「じゃあ明日から始まる件、ね」


 天音がそう言いながらさっさとお風呂から立ち去ってしまった。


 んっ、よろしくって何を……。


 そうだ、天音からお風呂で泡まみれにされて大事な案件をすっかり忘れていた。僕は丸いゆずの浮かぶ湯船にあごまで沈ませながら考えこんでしまった。ゆずが僕の身体と浴槽のふちに挟まりブクブクと気泡を立ち上らせた。ゆずの中に含まれていた柑橘系の香りが辺りに漂い始める。


 ――明日からはいよいよ冬休みに突入するんだ。本格的に僕たちの課外活動が開始される。






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