冬の散歩道。

 ――日曜日の早朝、僕とオリザは近所にある運動公園を目指して歩いていた。


 平日のルーティーンであるお弁当作りがないぶん時間的には余裕があるが、午前六時前にはオリザから強制的に朝の散歩をおねだりされるので、目覚ましは掛けなくても起床出来るようになったのは僕の生活では大きな変化だろう。


「……それにしてもオリザ、毎朝僕を起こすためだろうけど布団の上に身体ごと乗っかってくるのはやめてくれないか。ちょうど眠りが浅い時間帯だから寝覚めの悪い夢を見ちまうんだ……」


「わん……。ご主人様、悪い夢ってなんですか?」


「ちょっ、そんなにまじまじと見つめられたら話しにくいだろ。……身体の距離も近いし、また君の足先を踏みそうになるから散歩中は適度な間隔を保つこと。いいねオリザ」


「わんわん!! わかりましたぁ、ご主人様」


 まるでじゃれあうような僕たちの行動は端から見たら、朝っぱらからいちゃつくバカップルに思われるだろうな……。だけどオリザにとっては待ちに待ったお散歩タイムなんだ。


 初めて彼女と散歩に出かけたときに比べたら、すいぶんとおりこうさんになったな。家の玄関から出てすぐに立ちすくんで急に歩かなくなったり、その反対で興味のある物を見つけたら猛ダッシュで駆け寄ろうとしたり、妹の天音が作ってくれた丈夫なリードを繋いでなかったら一時いっときたりとて目を離せない状況だったんだ。


「そういえばオリザ。犬も夢を見るのかな?」


 ふと素朴な疑問を投げかけてみた。見た目は清楚なS級美少女のオリザ。今朝の出で立ちもすっかりおなじみになってきた白いもふもふファーの犬耳付きパーカーだ。フードを頭にかぶっていない状態だとちょっと面白いな。犬耳の付いた布部分が首の後ろ側に折りたたまれている。それはそれで彼女の持つ可愛さの破壊力が倍増する気がするんだ。


 今更ながら僕はオリザの魅力を再確認してしまった。


「……ご主人様、じっと見つめてますけど、なにかオリザの顔についていますか?」


「あっ!? ええっと。別に何でもないよ。ちょっと別の考え事をしていただけだから気にすんな」


「へんなご主人様。昨日からずっとそうですよ。オリザがお部屋で遊んで貰おうとしても、ぼ~~っとしてますし」


「そうだ夢の話しをしていたんだよな。オリザ!!」 


 まいったな……。子犬のように天真爛漫な彼女にまで心配されるようじゃかなりの重傷だな。僕は慌てて話題を力業でもとに戻した。


「夢はオリザも見ますよ。目が覚めるとほとんど覚えていないですけど……」


「ははっ、僕が君の見た夢の内容を当ててやろうか。美味しいご飯を食べるのと、めいっぱいお外で遊び回る夢じゃないか!!」


「わんわん!! ご主人様は本当にいじわるですね。そんなにオリザは単純じゃありませんから。ちゃんと女の子らしい夢も見ます」


 僕の何気ない冗談に頬を膨らませて抗議する彼女。妹の天音に接するように軽口を叩いてしまった自分に軽い驚きを覚える。


 いつの間にかオリザとの距離感が近くなっていたのは僕のほうだったんだな。彼女を家族の一員に思えてきた証拠だろう。


「オリザ、ごめん。謝るからふくれっつらはやめてくれよ。君には笑顔がいちばん似合うと思うから」


 そっぽを向いていたオリザの頬に微妙な変化が浮かぶさまを僕は見逃さなかった。こちらを勢いよく振り返る動作にあわせて彼女の長い黒髪がはらりと揺れ、髪の毛のあいだから露出した本物の耳はフードに付いたフェイクの犬耳の内側と同じく鮮やかなピンク色に染まっていた。


「わん……。ふくれっつらより私には笑顔が似合うってご主人様は言ってくれましたね。とっても嬉しいな」


 ええっ!? 僕がそんな歯の浮くようなセリフをオリザに対して口走ったなんて……。 心の声がダダ漏れになってしまったのか。


「べ、別に僕は一般的な見解を述べただけだぞ。みんなから好かれる子犬の必須条件は愛嬌だからな。確かにオリザの笑顔は。……とっても可愛いけどざ」


「わん、声が小さくて私のお耳にはよく聞こえませんよ。ご主人様」


 小首をかしげて僕の顔をのぞき込む彼女の顔は笑いをこらえていまにも吹き出しそうだ。


「オリザこそ意地悪なわんこだな。耳のいい君が聞こえないはずなんてありえないのに……」


「わん!!」


 これまで僕の胸の中にだけ広がっていた言いようのない不安。うっかり床に墨汁をこぼしてしまったようにその世界はまっ黒く覆い尽くされていたんだ。そこに一服の清涼剤のようにそそぎ込まれる輝かしい光の存在。一気に黒を浄化する真っ白なモノの正体を見極めようと心の中でまっすぐに手を伸ばした。


 その光に触れた僕は理解した。


「ちゃんとご主人様の言葉コマンドでオリザに伝えて欲しいんです。私がおりこうでみんなから愛される犬になるために」


 オリザ、君の笑顔には人を幸せにする能力がある。僕や天音の持つ能力ちからとは意味の違いがあるけど。


 ああ、今日だけはオリザの過去や未亜ちゃんの母親探し、そして妹の隠されていたの件とか、あれこれ悩むのは一時的にやめにしよう。目の前にいる彼女の幸せだけを考えればそれでいい。


「オリザ、これからご主人様の指示を入れるぞ。一回しか言わないから聞き漏らすことのないようにな」


「わんわん!! 了解しました」


 彼女の制服のスカートに縫いつけられたもふもふのしっぽ。天音のハンドメイド製で良く出来ているがダミーなので本物みたいには動かないけど僕の目には見えるんだ。オリザが喜びを表現してちぎれんばかりにその白いしっぽを振る様子が。


「……オリザ、君の笑顔が好きだ!! その笑顔を泣き顔にはしたくない。だから約束してくれ。これから僕たちにどんな障害があろうともそのままの笑顔を僕に見せてくれ」


 僕はオリザに約束という重い十字架を背負わせてはいないだろうか? ふとそんな想いが頭をよぎる。


 だけどそんな杞憂きゆうは彼女の次の行動でかき消された。


「わかりました、オリザは約束します。ご主人様の前では泣きません。笑顔のままであなたとずっといっしょに暮らしたい」


 まるで慈しみをたたえるような彼女の笑顔。口角の端からのぞいた白い八重歯の愛らしさに一瞬で目を奪われる。


 オリザ、教えてほしい。いまの僕の感情に名前ラベルをつけるとしたらいったい何だろう……。


 彼女には泣くなと約束を交わしたばかりなのに僕はどうかしている。急速に自分の視界がにじんでいくのが感じられ慌てて天を仰ぎ見た。


「……わん、ご主人様はどうして急にお空を見上げてるの?」


「ああ、何でもないよ。今日も青空がきれいだと思ってさ」


 オリザの笑顔を絶対に曇らせたくない。たとえどんな試練が僕たちを待っていようとも……。

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