君が僕に差し伸べてくれた手。触れた指先のぬくもり。

「う~~、わんわん!! ぐるぐるしすぎて目がまわっちゃいそうだよ。そろそろ我慢も限界だから地面にしゃがんでみようかな……」


 や、やめるんだ、オリザっ!! 制服のスカートの裾を指先でまんじゃだめだ!! 公衆の面前でおしっこはしないって僕と約束したはずじゃないか。君はご主人様との誓いを忘れたのか!?


宣人せんとお兄ちゃん、もしかしてオリザのしぐさはかなりヤバめじゃないの!?」


「ああ天音あまね、そのもしかしてさ。普段のおりこうな彼女ならちゃんと僕の言いつけを守るんだが、どうやらいっぺんに自分のお友だちが増えて嬉しさMax状態になっちまったみたいだ」


「子犬が自分を構ってくれる人が一気に増えて、嬉しくておしっこを漏らしちゃいます状態モードのことね」


「さすがは僕の妹だな。状況判断が早いぜ。天音、何としてでもオリザの動きを止めるんだ」


「お兄ちゃんわかったよ、だけどお散歩みたいにリードをしていないから、興奮しているオリザが逃げ出したら捕まえるのが大変だよ」


「そうだな、反対方向からお前はオリザに気付かれないように背後にまわり込んでくれ。僕は正面でおとりになるから逃げ出したところを挟み撃ちにする作戦でいこう」


 小声で天音と話しながらゆっくりと移動を開始する。オリザは感情のスイッチが入るとかなり厄介なんだ。彼女の詳しい犬種についてはまだ解明していないが、普段の大人しい態度から一変して興奮モードに移行するさまを僕も天音も過去の散歩で経験済みだ。


 オリザとの間合いを少しずつ詰めながら、僕は対角線上に立つ天音に確認の目くばせをした。


「う~~ん、なかなかいいポジションが定まらないよぉ。おしっこが引っ込んじゃうかも……」


 オリザは相変わらずの旋回運動を繰り返しているが、その動きが鈍ってきている。いまが捕獲する絶好のチャンスかもしれない……。


「わん? 何か地面に落っこちてる。これは拾ったもん勝ち!! オリザのものにしちゃおうっと」


「あっ、それは私のお母さんの手紙……!?」


 目の前で繰り広げる光景に驚きの視線をむけながらただ茫然と見つめていた未亜みあちゃんだったが、ビニール袋に入った大事な手紙をオリザに拾われて思わず血相を変えた表情になっているさまがこちらからも見て取れる。


「わんわん!! みんながオリザと遊んでくれるの!? はやく追いかけてきてね」


 口の端にビニール袋を咥え、これが遊びだとすっかり勘違いしたオリザ。こうなったら手が付けられない状況だ……。


 すたこらと逃げまわり始めるもふもふの白い背中に未亜ちゃんは声を掛けるのだけでも精一杯の様子だ。


「オリザさんお願い。それは家を出ていったお母さんが私に宛ててくれた大事な手紙なの。すぐに返して……!!」


「未亜先輩のお母さんが書いた手紙!? オリザ、そのビニール袋をいますぐに離しなさい!!」


「わん!! オリザが拾ったの」


「こら、庭を逃げ回るな。ちょっと待ちなさい!!」


 香菜かなちゃんも加勢してくれてビニール袋を手放さないオリザを三人で追いかけ始める。


「オリザ、いい加減にしろ。手紙を未亜ちゃんに返すんだ!! 早く!!」


 今にも泣き出しそうな表情の未亜ちゃんを見て僕は思わず声を荒げてしまった……。


 びくっ、と肩をふるわせオリザがその場で急に立ち止まった。自分がしでかした悪戯が度をこしたことにやっと気がついた表情をしていた。


「……ご、ごめんなさい。ご主人様。このビニール袋の中身からとっても懐かしい匂いがしたから、オリザ。返したくなくなっちゃったの」


 彼女の大きな目には溢れんばかりの涙が光っていた。その瞳に映る小さな満月が激しく揺らめいて見える。僕は胸の痛みを覚えると同時に、オリザの発した言葉に強い引っかかりを感じた。


「オリザ、もしかして君は匂いでわかるのか? そのビニール袋の中身に入れられた手紙の主について」


「……うん、わかるよ!! だってオリザは犬だもん。匂いを嗅げばその人のところにだっていけちゃうんだから」


 僕の感じた違和感の正体はこれだったんだ!! 最初にオリザと庭で遭遇したとき、彼女は未亜ちゃんの匂いを嗅いで自分と同じだと言った。そして今度はビニール袋に入れられた手紙からそれを書いた人の匂いを正確に嗅ぎ分けたんだ。犬に備わった嗅覚は人間の三千倍から一億倍とも言われている。


 なぜごく普通の女子高生だったオリザにそんな特殊能力が発動したかは現時点では謎だが、僕の持つ例の能力だって現代の常識でも説明出来ない代物じゃないか。 


「じゃあオリザ、君はこの手紙の主を見つけだすことが可能だと言うのか!?」


「そんなの朝飯前だわん!!」


 さっきまで泣いていたはずの赤鬼ならぬ子犬のオリザ。彼女は得意満面な笑顔を浮かべている。


「未亜ちゃん、これはもしかしてもしかするぞ!!」


「天音ちゃんのお兄さん、話は全部隣で聞いていました。オリザさんの持つ嗅覚を使えば、私はお母さんを探し出せるかもしれないんですね!!」


「そうだよ、生き別れのお母さんともまた暮らせるようになるかもしれない!! ねえ、香菜ちゃんもいっしょに僕の話を聞いてくれ」


「もちろんバッチリ聞いてますよ宣人さん、ええ、こんな大事な話を聞き漏らすもんですか」


「宣人お兄ちゃん、天音の存在を忘れていない!! お泊まり会の主催者だよ。オリザの身元を調べる件と同時進行でやっちゃえばまさに一石二鳥じゃん。どうせなら時間の効率コスパを考えようよ」


「ははっ、効率厨のお前らしいや!! そうだ香菜ちゃん、祐二のやつをいまから呼んでもいいかい?」


「……ええっ、兄貴ですかぁ!? いちいちうるさく口を挟んでくると思いますけど」


「あいつの持つ人たらしの能力は絶対に役に立つと思うんだ。オリザの身辺調査と未亜ちゃんのお母さんを探す案件。どちらも聞き込み調査が必須になるはずだからね」


「親友の宣人さんだけですよ、兄貴をそんなに過大評価しているのは。香菜にはめっちゃウザい存在ですけど、きっと連絡したら喜んで飛んでくると思います。今日だってお泊まり会に私をスクーターで送ってやるって出がけにうるさかったくらいですから」


 これで役者は揃った。僕ひとりでは無力でも天音たちや祐二の協力を仰げれば、難題に思えたふたつの案件にも必ず突破口が見つかるはずだ。


 僕はこれまで他人の手を借りるのに拒否反応に近い抵抗感を覚えながら生きてきた。その根底には自分に備わった例の能力ちから、その存在が色濃く影を落としていたのは否めない。


 直接的な身体接触を恐れるあまりに精神的な援助まで頑なに拒んできた自分。誰の手も借りずにひとりでも生きていけるだなんて……。なんて傲慢ごうまんな考えに凝り固まっていたんだろうか。


 僕を変えてくれたのはオリザだけじゃない、未亜ちゃん、天音、そして阿空あく兄妹。差し伸べてくれる手はこれまでも身のまわりにずっと存在していた。僕が見ないふりをしていただけなんだ……。


「うう~ん、ご主人様ぁ!! またぐるぐるしたくなっちゃったよぉ!!」


「お、オリザ、ここでしちゃだめだ。僕と急いでトイレにいこう!!」


「あ~~!! 宣人お兄ちゃん、トイレだけは一緒にいっちゃだめ!! 精神こころは子犬でも身体は立派な大人の女の子なんだから。オリザ、天音がついていってあげるね」


「わんわん!! 嬉しいな。天音と連れションだぁ」


 ……こうして僕とオリザの同棲生活がさらに賑やかさを増していったんだ。

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