君の名字をはじめて知った月夜の晩、僕は迷わず進む決意をする……。

 ――どうしてもっと早く気がつかなかったんだろう? 僕の帰りを首を長くして部屋で待っている君の存在を。


 初めて君が家に来た日。慣れない場所に連れてこられて不安そうな目をした君を抱きしめた腕のぬくもり。そのやわらかな感触は大人になったいまでもしっかりと覚えているのに。


 時の流れはあまりにも残酷だ。あれほど大事にお世話するといってお父さんと約束したのも忘れて手に入れた瞬間の高揚感は次第に下降線をだどる。まるで興味の薄れたおもちゃみたいな扱いをしてしまった。純真無垢な君はそれでも変わらぬ態度で僕を慕ってくれたね。


 小学校の放課後、道草をして遅くなった僕の帰宅を変わらない態度で歓迎してくれた君の存在。それなのに完全に無視して部屋から立ち去ったこともあった。


 僕の言うことを聞かない君に腹を立てて時には声を荒げたりしてしまった。


 僕と君との時間の流れはまったく違うというのに……。


 人間にとってはたった一日でも、犬の君にとっては長い一週間に相当するなんて幼い僕はなにも知らなかった。


 それなのに僕は日々の癒しを与えてもらうばかりでなにもしてやれなかった。自分の欲求が満たされたら君をすぐに狭い部屋おりに閉じこめてしまったんだ。クリアして興味のなくなったゲームソフトをおもちゃ箱の奥にしまい込むみたいに……。


 もっと遊んでやれば、もっと一緒に散歩に出かけてやるべきだったのに……。君が天国に旅立ってからどれほど後悔してもすでに遅かった。


 無償の愛を飼い主に与えてくれるかけがえのない存在。そんな大切なものを失ってみてから気がついても遅すぎるという事実を僕は思い知らされた。


 それなのに同じ過ちを繰り返してしまうのはなぜなんだ……。


 愚かな僕をきっと神様は今回も許してはくれないだろう。




 *******




「オリザ、ご主人様のいいつけを守れなかった。おりこうさんに出来なくてごめんなさい……」


 満月が照らし出す彼女のシルエットはやけに小さく見えた。ぶるぶると激しく身震いするしぐさは外の寒さだけではない。犬が動揺した自分を落ち着かせる際にみせる習性だ。


 考え得る限り最悪の状況に僕は遭遇していた。自分を犬だと思いこんでいるオリザの存在を未亜みあちゃんに目撃されてしまった。僕が個室部屋に引っ越しをした事実を彼女は知っている。なにげなく話したつもりがとんだ墓穴を掘ってしまうことになるなんて予想だにしなかった。


「…… お兄さんと仲のいい人ってきっと彼女なんですね」 


 未亜ちゃんが低めのテンションでぽつりとつぶやくのを黙って隣で聞くしか出来なかった。この修羅場を切り抜ける妙案が僕の混乱した頭にはまったく浮かんでこない。


 親戚の女の子が遊びに来ているとか、見え透いた嘘を並べてもいつかバレて純真な未亜ちゃんを傷つけるだけだ。彼女には真実を告げるしかないのか?


「……未亜ちゃん、僕の話を落ち着いて聞いて欲しい」


「話ってなんですか……?」


 無理だ、彼女はまったくこちらと視線を合わそうとしない。僕への猜疑心さいぎしんでいっぱいの状態にみえる。


「わんわん……!!」


 オリザ、こっちへ来ちゃだめだ!! その顔は僕に抱きついてくるつもりだろう。お願いだからこれ以上最悪の上塗りをしないでくれ。


「わん!! あなたはご主人様のお友達なの? くんくん。んっ、この匂いは!? オリザとおんなじだ!! ご主人様を大好きだっていう匂いがする」


 オリザは僕の前を通り過ぎ、隣で呆然と立ち尽くしていた未亜ちゃんに歩み寄った。子犬が鼻を利かせるような姿勢で身体をすり寄せたかと思ったら、とんでもないことを言い始めた。


 なんだよ僕を好きな匂いって!? そんな特殊な嗅覚が彼女には備わっているとでもいうのか!? 自分を犬だと思い込んでいるだけで身体は人間のはずなのに。


「ええっ、嘘でしょ。私からそんな匂いがしているなんてありえない」 


 これではもう一巻の終わりだ……。


 未亜ちゃんに犬の行動を取るオリザのことを完全に知られてしまった。この場を取り繕うような出任せをいくら並べても信用されないだろう。


「……あれっ、もしかしてあなたは!?」


「わんわん!! かわいいお姉さんも私となかよしになってくれるの?」


 自分と同じ匂いを感じてすっかり有頂天になって喜んでいるオリザとはまったく対照的に、未亜ちゃんの態度が突如急変した。


「……犬上いぬがみさんだよね。犬上オリザさん。ほら同じ女子校だったから私のことも知っているでしょ!!」


「わん?」


「わかるよね、未亜だよ。生徒会でも一緒だったじゃない」


 こ、これはいったいどういうことなんだ!! ふたりは学校の知り合い同士なのか? 未亜ちゃんはオリザのことを同じ女子校といった。あの名門、君更津南女子校のことを言っているのだろう。そして犬上という名字。どこかで見た覚えがある名前だ。


「どうしたの? オリザさん、こんな犬みたいな耳を付けた格好をして。それにクラスのみんなもすっごく心配してたんだよ。身体の具合が悪くなって何ヶ月も学校を休んでいるって言うから。私、何度もお見舞いに行こうとしたんだけど携帯もつながらないし自宅にお伺いしても誰もいなかったから」 


 未亜ちゃんの会話から断片的に僕の知らない女子高生だったオリザが浮き彫りになる。親父の口はとても重くいまだに多くを僕たち家族に語ろうとしたがらない。ごく普通の日常生活をおくっていた犬神オリザ――彼女はいったいどんな女の子だったんだ……。


「宣人お兄ちゃん、それに未亜先輩、庭で何を騒いでいるの。近所迷惑になっても天音は知らないよ。……えええっ!? オリザがなんで二人といっしょにいるの!!」


「天音ちゃん、って誰なの? とうしてそんなにびっくりした顔をしているの。香菜かなにも分かるように説明してくれる」


 天音と香菜ちゃん、女の子たちがあげた驚きの声が僕の思案を遮った……。


「みんな、僕の話を聞いてくれ!! 頼む……」


 これ以上オリザの秘密を隠しきれないと僕は判断し心の中で決意を固めた。天音よ、不本意だがみんなを巻き込む兄貴をどうか許してほしい。

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