彼女の腕時計に秘められた悲しい記憶……。
「この腕時計は生き別れた母から貰った大切なものなんです……」
天音と香菜ちゃんの策略にまんまとはまり、部屋の中には彼女とふたりっきりになってしまった。最初はベッドに腰を下ろし肩を寄せ合う状況下にとても舞い上がってしまったが、硬派な男と見込んで秘密を打ち明けてくれた未亜ちゃんの真剣な表情を見ていたら、そんな浮ついた気持ちはいつしか消え去ってしまった……。
「君のお母さんが高校入学のお祝いで贈ってくれた大事な腕時計なんだね。いまは一緒に暮らしてなくとも娘を想う素敵なプレゼントじゃないか」
「それは……」
未亜ちゃんの表情に陰りの色が射し、僕から慌てて視線を外すのが見てとれる。
「どうして家族がこんなふうになっちゃったのか私にもわからないんです。両親は昔から仲も良く特に母はおっとりとした性格で、二人が揉めているところなんて一度も見たことがなかったのに……」
「お母さんは未亜ちゃんを置いて家を出て行ってしまったんだね」
「はい、短い手紙だけを残して。ちょうど私が中学三年生の春休みの出来事でした。母に出ていかれたショックで、父親は
母親がいない境遇は自分と同じだ。だけど明らかに違っているのは死別したのは僕と天音が物心ついてないころだったから、現実感が薄くもっとも悲しい記憶にはなりえない。しかし彼女の場合は思春期のいちばん多感な時期に母親が突然家からいなくなったんだ。
その差は歴然だろう。僕が彼女の抱えるもっとも悲しい記憶の中に視た見知らぬ女性は、生き別れた母親に間違いはないだろう。
だけどまだ大きな疑問も残る。未亜ちゃんが大事そうに身につけている腕時計は贈り物だと言った。記憶の
「未亜ちゃん、もしかしてその腕時計はお母さんとお揃い?」
「ええっ、どうしてお兄さんはそんなことまでわかるんですか!?」
「ああ、なんとなく話の流れでね。意外と僕は話の先を読めるんだ。天音には負けるけど」
つい先走って自分の疑問を彼女にぶつけてしまった。普段から空気の読める妹を急遽引き合いに出したが、不自然に思われてはいないだろうか?
「……そのとおりです。じつは私にとっては高価な品物で高校受験を頑張るから同じ腕時計を欲しいって母にお願いしていたものなんです」
「どうして未亜ちゃんは同じ腕時計が欲しかったの?」
ふうっ、なんとか怪しまれずにこの場を切り抜けられそうだぞ。
「母から聞いた話ですが父との思い出の大切な品物なんだそうです。この腕時計がなれそめのきっかけになったんだって。母はまるで少女みたいに頬を赤らめながら私に教えてくれました」
「そうだったのか……」
未亜ちゃんの複雑な心境を思うとその後の言葉がとても続かない。
母親が家を出て行った後に贈られてきた思い出深い品物と同じ腕時計。彼女はどれほどつらい気持ちでその時計を身につけているんだろう。
「お母さんの行き先になにか心当たりはないの? そうだ手紙にヒントでもあれば!!」
「……行き先の手がかりになる内容は書いてありませんでした。じつは肌身離さず持っているんです」
そういって彼女は自分のバッグからビニール袋に入れられた手紙を取り出し僕にみ見せてくれた。
「私って変ですよね。密封出来るビニール袋に母の手紙を入れて持ち歩いているなんて……」
「そんなことないよ。お母さんの手がかりが少しでも残っているほうがいいに決まってる」
未亜ちゃんが僕に話したら笑われると言っていた意味が理解出来た。生き別れになった母の手紙を密封していつも持ち歩いているなんて、ふつうの女の子の感覚としてはキモがられるんじゃないか? と躊躇して他人にはとても打ち明けられないだろう。
だけど未亜ちゃんの気持ちが僕には痛いほどわかるんだ。あの腕時計と同じく手紙も彼女と母親をつなぐ糸みたいな接点なんだってことが。
「……未亜ちゃん、これから僕につき合ってくれないか。ちょっと表に出よう」
「えっお兄さん。いったいどこに行くんですか?」
「いいから僕についてきて」
とまどいの表情を浮かべる彼女を僕は狭い部屋から連れ出した。別に考えがあったわけじゃない。沈痛な面もちを浮かべた未亜ちゃんをこのままにしておきたくなかったのかもしれない。とにかく一刻も早く外の新鮮な空気に触れたかった。
「今日はちょうど満月が出ている晩だからさ。庭に出て眺めながら話の続きをしよう」
一階に降りる階段の踊り場で彼女に話しかけた。それまで浮かべていた怪訝そうな表情に明るい色が点るのがこちらからも見て取れる。良かった!!
「はい!! お兄さんといっしょなら喜んで」
未亜ちゃんがこちらに伸ばしてきた指先に僕は一瞬戸惑いを覚えたが、すぐに気を取り直してその手をつかんだ。柔らかな彼女の手のひらの感触。もっとも悲しい記憶の流入は起こらない。遮断する余裕があれば例の能力も制御出来ることを再確認した。
リビングには天音と香菜ちゃんの姿は見あたらなかった。僕たちに気を利かせてコンビニに買い出しにでも出かけたのだろう。
母家から庭に続がる戸口を開けた。十二月の冷たい外気が露出している首筋を通り抜ける。
「……未亜ちゃん、寒くない?」
「はい、大丈夫です。お兄さんの手が温かいから」
隣で僕を見上げてくる彼女のはく息が白い。セーターだけじゃ風邪をひいてしまうな。
「これをつかいなよ。僕は寒さに強いから」
「えっ、お兄さんの上着を!? 借りてもいいんですか」
「平気だよ。昔から言うだろ、何とかは風邪をひかないってさ」
「じゃあ遠慮なくお言葉に甘えさせてもらいます。でもお兄さんは何とかじゃなくとってもおりこうさんに見えますけど」
「ははっ、お利口さんか。未亜ちゃん、その言い回しはどこかで聞いたセリフだよ。僕の知っている人もよく同じ言葉を口にするんだ」
「……きっとお兄さんと仲のいい人なんですね。なんだかうらやましいな」
「えっ!? 僕は何か余計なおしゃべりをしちまったみたいだ。……庭の向こうの場所から月は良く見えそうだね。そっちに移動しようか」
「……はい」
庭に出た僕らをまるで歓迎してくれるかのように満月が照らし出してくれる。落ちてきそうな錯覚を覚えるほど大きな月だ。
「わあっ!! きれいなお月さまですね」
見上げながら歓声をあげる未亜ちゃんの横顔を僕は隣から満足げに眺める。少しでも悲しい記憶を思い出さないでいてくれたら。心底そう思えたんだ……。
次の瞬間、けたたましい音に僕は現実に引き戻された。何かが窓にぶつかったように思える。
「……あいたた。部屋の窓からおっこちちゃった」
こ、この声はまさか!?
離れにある個室部屋の庭に面した大きな窓。天音がそこから出入りしてよく僕からたしなめられる場所だ。直接庭に降りられる作りになっている。一瞬窓から落ちたのは部屋に隠れていた天音ではないかと思った。
だけど僕たちの前で地面に座ったまま痛そうに腰をさする人物は妹の天音ではなかった。
「……お、オリザ、どうして君が庭に出ているんだ!?」
「わん……!! ご主人様の帰りがあまりにも遅いからお外にでちゃった」
もふもふした犬耳付きの白いフードを目深に被ったオリザの表情はこちらからは伺いしれなかった。きっと飼い主にいたずらを見とがめられた子犬みたいに神妙な顔をしていたに違いない。彼女は僕のいいつけをちゃんと守り個室部屋でおりこうに待っていたというのに。
――悪いのはオリザをひとりぼっちで部屋に待たせすぎた僕のせいだ。
「お、お兄さんの部屋から出てきましたよね。この人はいったい誰なんですか!?」
この修羅場のような状況は予測していなかった。いったい僕はどうやってこの場を切り抜ければいいんだ!!
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