僕はある意味、痴漢より卑劣な行為を君の身体にしてしまうかもしれない……。

『~まもなくこの電車は発車します~』


 僕たちを乗せた上りの電車内に発車を知らせるアナウンスが無情にも流れる。いま自分に出来る最善の対応策を考えようとするが、混乱した頭ではこの場を切り抜ける妙案みょうあんはまるで浮かんでこなかった……。


 仕方がない、無策ノープランでこの最悪の状況に立ち向かうしかないか。


 まったく身動きのとれない電車内に思わずいら立ちを覚えてしまう。十二月の気温だというのに背中に汗が流れるのを覚えながら、僕は狭い視界を見回して注意深く辺りを観察し始めた。


 左隣には中年のサラリーマン風の男性が立っている。きつい整髪料の匂いが僕の鼻をつく。相手との身体の間には固い素材のブリーフケースがあり、直接的な身体接触は防げていた。大丈夫だ、例の能力ちからの発動条件は満たしていない。


 次は右隣だ。首をひねって視線をむけた先には不快そうに顔を逸らす会社員風の若い女性の顔が見えた。身体を動かした僕に対してあからさまに嫌な表情を浮かべるのが見て取れる。身体は密着しているがこちら側からも記憶の流入はなさそうだ。


 でも安心するのはまだ気が早いぞ。それに混雑した電車内で身体を不自然に動かすのは得策じゃないな。ただでさえ痴漢の多い路線らしいから未亜みあちゃんをエスコートするどころか、僕が痴漢の冤罪えんざいで他の乗車客から声を上げられてしまっては本気まじでしゃれにならないぞ……。


「……あの、お兄さんはそんなに腕を突っ張った姿勢で苦しくないですか?」


 僕の顔の下、ちょうど胸のあたりから未亜ちゃんのか細い声が聞こえてくる。彼女はうつむいた状態なのでこちらから表情はよく見えない。


「ああ大丈夫だよ。僕のことは気にしないでくれ。君を守るって約束したんだから」


 電車の戸口付近にある座席との狭い空間。そこに僕が自分の身体を使って簡易シェルターのような覆いを作り彼女をしっかりとガードしていた。


 ……しかし先ほどは肝を冷やしたな。乗車の人波に押されてしまった僕は未亜ちゃんと完全に抱擁ハグ状態になり、危うく能力を発動するところだった。慌ててこちらから身体を引き離したから彼女からの記憶の流入はなんとか間一髪で阻止することが出来たんだ。


「ありがとうございます、私、男の人からこんなふうに優しくされ……」


 電車の激しい走行音に遮られ消え入りそうな彼女の声は語尾がよく聞き取れない。


「えっ、未亜ちゃん、なんて言ったの?」


「いえ、何でもないです。ごめんなさい」


 頬がほんのり薄紅色に染まっている。未亜ちゃんはかたちのよい唇をきゅっと結んで、その子猫のような瞳を僕の顔から逸らしてみせた。


 なぜ彼女は僕に謝るんだ。さっぱり見当がつかない。まったく女の子はわからないな。


『~次は君更津きみさらず駅~』


 市街地を抜けると一気に車窓の景色が変わる。線路とほぼ並行に走る国道では長い渋滞の車列が発生していた。いまの時間帯が朝の通勤ラッシュというのもあるが、近隣には大学病院がありそこに向かう車が国道の渋滞とちょうど重なるため、朝と夕刻はこの辺りではおなじみの光景なんだ。渋滞はまだピークの時間帯ではないがこの上りの電車内はかなりの混雑だった。


 僕には電車の戸口付近から窓越しの景色を眺める余裕まで出てきた。そして電車は最初のトンネルに入る。光が遮られた窓に映るのは君更津南女子高の制服に身を包んだ女の子の細い背中。ただ身じろぎもせずに佇んでいる。

 

 僕はひとまず深い安堵の息をもらした。未亜ちゃんの通う君更津南女子校は次の駅が最寄り駅だ。そして女子校も駅前からすぐの場所にあるので、このまま無事に到着したら任務完了だ。


 次のトンネルを抜けたら街並みが見えてくるはずだ。そして駅はもうすぐ!!


 ……ガクン!!


「きゃっ!!」「うわっ!!」


 突如、激しい振動に全身を襲われる。たまらず金属製の手すりから力を込めて握りしめていたはずの両手がふりほどけてしまった。電車がトンネル内で緊急停止したのか? 車内が一瞬で騒然そうぜんとなる。


「しまった……!?」


 腕の中に柔らかな感触を覚えた。先ほどの電車の揺れで抱きしめたのが未亜ちゃんの制服越しの身体だと理解する間もなく、例の忌まわしい偏頭痛が襲ってくる。そして僕は不快な感覚とともに今回の失敗を完全に認めざるを得なかった……。


「お、お兄さん、思わずよろけてしまってすみません。私を抱き止めてくれたんてすね」


 だめだ!! 能力を遮断するひまがない……。彼女のもっとも悲しい記憶が僕の中に流れ込んできてしまう。


「お、お兄さん、大丈夫ですか!? 顔が真っ青ですよ。それに手が震えています。私の声が聞こえますか!!」


 彼女の声が遙か遠くから聞こえる気がした。僕はまるで全身が暗い底なし沼に沈んでいく感覚に捕らわれてしまった。これまで過去の事例にないパターンに驚きを禁じ得ない。すぐに記憶の追体験が始まるんじゃないのか!? 


 まだ僕は未亜ちゃんと知り合ったばかりだ。なのに彼女の中にある誰にも知られたくない悲しい記憶をのぞき込んでしまうのはある意味、痴漢行為よりも卑怯じゃないのか……!?


「お兄さん!! しっかりしてください」


 ――ごめんね未亜ちゃん。最後まで君を守れなくて。


 ああ、なんだかものすごく眠くなってきた。僕の沈んでいくこの沼の中はとてもあたたかいや。もうなにも考えるのをやめにしよう……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る