裸足で追いすがる彼女の背中。悲しい記憶の残滓

 僕は彼女の乗った自転車を見失わないようにしっかりと前方を凝視し続けた。白い三本線が途中で途切れる襟元が特徴的なセーラーカラーの制服。その背中が次第に遠ざかるのを半ば絶望的に眺めていた。


 自転車の後を追いかけて急に駆けだした僕は激しく息を切らしてしまう。朝から全開ダッシュ一本はかなり身体に負担が掛かる……。足下の固い革靴がさらに走りにくさを増幅していた。


未亜みあちゃんの自転車は電動式か!? このままじゃとても追いつけないぞ。どうする? 制服のスカートがめくれているって大声で叫ぶか。だめだ、そんなことをしたら公衆の面前で彼女に大恥をかかせてしまうぞ」


 先ほどの交差点よりも歩道を歩いている人はまばらだ。不幸中のさいわいで自転車のサドルに腰掛けた状態では露出した白い下着が完全に丸見えというわけではなかった。


 このまま彼女を見過ごして自分の学校にむかうか? そんな浅ましい考えが僕の脳裏に浮かんだ。


 ふいに彼女と交わした先ほどの会話を思い出す。それと同時に感謝の言葉を僕に投げかけてくれた未亜ちゃんの嬉しそうな笑顔が頭に浮かんできた。


『はいっ!! お兄さんに大変なところを助けてもらって本当に嬉しかったです。それに私が思っていたとおりの硬派な男性でしたから……』


 未亜ちゃん、なんて僕を過大評価しすぎだ。そんなに立派な男じゃない。過去のトラウマに捕らわれて本当はもっと大勢の人と接したいのに臆病になっている弱い人間なんだ。


 ……だけど、ずっと弱虫のままで本当にいいのか?


「ひよってんじゃねえぞ、宣人!!」


 僕は自分自身を激しく鼓舞こぶした。未亜ちゃんは妹の天音と仲の良い先輩だろ。僕ともまったく関係がないとは言わせない。己の中の弱気な気持ちを必死で押さえ込む。


「どうせ乗りかかった船だ。最後まで責任を全うするのが硬派な男っていうんだろ!!」


 僕に関係するすべての人に悲しい思いなんて絶対にして欲しくない……。


 これまで自分の中に芽生えたことのない強い感情。それを与えてくれたのはきっと彼女オリザだ。


 ……まるで捨てられた子犬のような目をした少女。


 これほど大事なことに僕は気がついていなかった。彼女の悲しみをたたえた瞳の奥をのぞき込んだあの夜から自分の中で大きな変化が起きていたんだ。


 それにオリザはちゃんと約束してくれた。もっとおりこうになるって。それなのに飼い主である僕が不甲斐ない態度ではとても彼女に顔向けが出来ない。


「いっちょやるかぁ!!」


 走りにくい革靴なんて脱げばいい。


 靴下も邪魔だ。鞄に両方を放りこみ、裸足になって身軽になった僕は猛然と歩道を駆け出す。


「すいません、通らせてください!!」


 停留所でバスの到着を待つ長い行列の間をぬい、前方に目を凝らす。歩道の小石が素足の裏に食い込むが、今は気にしていられない。不思議な気分だ。痛みよりも開放感が足先から全身へと広がってくる。きっと興奮でアドレナリンが放出されて痛みを打ち消しているのかもしれない。


 気持ちいいな、裸足で駆け回るなんて何時いつぶりだろうか? 


 僕には医者の親父みたいに専門的な知識はない。だけど脳内物質が分泌されている頭にはこんな推論が浮かんでくる。


 太古、人は裸足で生活していた。服も最低限の物だけで日々を過ごす。物質的な問題で靴がないこともあるが、そこには別の理由わけがあるんじゃないか?


 外敵の脅威にさらされる時代。分厚く服をまとうことは身動きが悪くなるだけじゃなく、本来人間が持っている研ぎ澄まされた皮膚感覚のような能力を鈍らせる大きなデメリットがある気がしてならないんだ。現代人が便利や快適と引き換えに


 たとえば僕の持つ秘密の能力ちからみたいに……。



 *******



「天音ちゃんのお兄さん!? ど、どうしたんですか。そんなに息を切らして」


 はあはあと肩で息をしながら柱にもたれ掛かる。ここは駅前にある駐輪場だ。なんとか彼女が電車に乗り込む前に追いついたぞ。鞄にしまっておいた靴を未亜ちゃんに会う前に履くのが間に合ったのも良かった。


「はあっ、ちょっと気になることがあってさ」


「まさか、私の自転車を走って追いかけてきたんですか? 冬なのにすごい汗ですよ」


 乱れた息を整える僕の額に押し当てられる柔らかな布の感触。未亜ちゃんがハンドタオルで汗を拭いてくれているんだ。いまが事情を話すチャンスかもしれない。


「……あ、あのね未亜ちゃん」


「ああっ、ごめんなさい。電車の時刻が迫ってます。遅刻しちゃうから行きますね!!」


「あっ、話はまだ終わっていないんだ」


 腕時計を一瞥いちべつしながらその場を立ち去ろうとする彼女。そのリュックを背負う制服の後ろ姿は自転車のサドルに座っている状態よりも、立っている状態の為にスカートの裾が背中に下がったリュックに巻き込まれ、下着の白い布地が露わになっている。まさに緊急事態だった。


 駅の階段を彼女の背後から駆け上る。出来るだけ制服のスカート部分が目に触れないようにこちらの身体でガードするのも忘れない。


 階段下から駅構内に流れ込んできた冷気が熱くなった僕の頭を冷やす。


 いまの状況を俯瞰でみるとおかしい人に思われないだろうか? いくら知人の妹の兄だとしても、ほとんと初対面の男が血相を変えて走って追いかけてくる状況はストーカーと勘違いされてもおかしくない。


 ここはなにか怪しまれない理由付けが必要だ。


「あ、あの、どうしてお兄さんは駅まで来たんですか。確か通っているのは中総なかそう高校ですよね。遅刻しちゃいませんか? なんだかそれに身体の距離感がめっちゃ近い……」


 ほら、すでに彼女からかなり怪しまれてるじゃないかよ!! なにかもっともらしい理由を話すんだ。


「……あ、ああ、未亜ちゃんが心配だから学校まで僕に送らせてもらっても構わないかな。さっきみたいに不心得な輩が電車内に潜んでいるかもしれないから」


「えっ、お兄さんが私を学校まで送る!?」


 僕の苦し紛れな申し出を受けて彼女の子猫のような目に驚きの色が浮かぶ。


 ……いきなりな話すぎたか? さらに不審に思われたかもしれない。 


 気まずい沈黙が重い空気となって僕の肩にのし掛かる。


「……お、お兄さんは自分の学校に遅刻しても構わないんですか」


「ああ、大丈夫だよ。僕の一人しかいない男友達がこういうときは代返してくれるから」


「確かに私の乗る電車の路線は痴漢が多発しているんです。女子高生も多く乗車しているからすっごく怖いと思ってたのは確かです」


「そ、そうだよ。特に未亜ちゃんは可愛いから痴漢からターゲットにされたら大変だよ!!」


 ここで畳み掛ける必要があるな。痴漢の件は多発しているとは知らなかったが、話の整合性が出て幸運だった。まあ、全部が出任せではなく彼女が可愛いというのは本音だけど……。


 僕の言葉にしばし黙り込む彼女。かなり悩んでいるのか少し顔が上気してみえる。そして意を決した面もちで口を開いた。


「じゃあお兄さんにエスコートをお願いします……」


 よし!! 最大の難関突破だ。定期券のない僕は急いで窓口で切符を購入して未亜ちゃんといっしょに改札をくぐった。電車のホームまで気を抜かずこちらの身体と鞄で彼女をしっかりガードしながら歩く。ホームには大勢の人が列をなして電車の到着を待っていた。


 ちょうど到着時間ぎりぎりだった僕たちの乗る電車が上りのホームに滑り込んできた。窓から見える車内は満員だった。


 ち、ちょっと待てよ。電車だと!?


「だめだ。僕はこの電車に乗ったら大変なことになる……!!」


 人助けに夢中になり僕は肝心なことを忘れていた。最大の難関はまだ終わっていなかった事実を思い知らされる。


 電車の扉が開きいっせいに人がホームへと降りてくる。その流れとは逆に乗車の列に背中を押されてしまう。無我夢中で僕の前に立つ未亜ちゃんを自分の身体全体を使って乗降客の人波からガードした。


「きゃっ、お兄さんの身体が!?」


 未亜ちゃんのくぐもった声が僕の耳元に届く。電車の戸口の脇にある空間になんとか二人で身を滑り込ませることが出来た。満員電車で押されて完全に彼女と抱擁ハグする格好になる。


 いちばん避けたかった状況にとまどいを隠せない。まさに最悪の状況だ……。


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