わん!! ご主人様。私が電柱に向かって足を上げたらなんで慌てるのかな!?

「オリザ、ごめんな。犬にとって大事な日課さんぽをすっかり忘れた僕をどうか許してくれ」


「……わんわん!!」


「ああ、君はいまそれどころじゃないか。家の近所を散歩するのは今朝が初めてだからな。この辺りのテリトリー確認に忙しいよね」


 家の近所にある長い周遊路の歩道を有する公園の中を二人で並んで歩いていた。早朝の公園は歩行者もまばらで、当初懸念していた人目を気にする必要もあまりなかったのは幸いだ。


 僕たちにしたら飼い主と飼い犬の関係性、そして愛犬の散歩のつもりでもはたから見たら人間同士の散歩にしか思われないだろう。


「なあ、オリザ。テリトリーの確認が忙しいのは犬の習性としては仕方がないけど、そんなに屈むと膝が地面について汚れるよ。ただでさえ君のはもふもふで真っ白なんだから後で洗うのが大変だと思うし」


 彼女の着ている犬のコスプレめいた洋服もあえて体毛と表現した。オリザの真っ白い犬耳付きパーカーについては少し見慣れてきたが、そのもふもふの上着の下には可愛らしいメイドさん風の制服を身にまとっていたのはとても意外だった。


 自分を犬と思いこんでいる女の子と聞いて最初に連想したのは全身犬の着ぐるみを着込んだ姿だったから。


 昨晩に聞いた親父の説明では彼女の行動は、すべて犬の習性に乗っ取られているわけではないとの話だった。あくまで親父の推論だが、自分を犬だと信じ込む前のごく普通の女子高生だった記憶が最低限の社会性を維持しているのではないかと。


 オリザのお世話係として今後の生活に猛烈な不安を抱いていた僕としては、そのありがたい事実を知って安堵の胸をなで下ろしたんだ。


 考えてもみてほしい。もし彼女の行動がぜんぶ犬と同じだとしたら、いま目の前にある電柱にむかって、うら若き美少女が片足をあげて用を足し始めたらどうなる? めちゃくちゃ大惨事になるのは火を見るよりも明らかだ。


「はあっ、本当に良かった」


「……ご主人様、お顔が真っ赤。なんでかな、お熱でもあるの?」


「うひゃあ、べ、べつに大したことは考えてないよ。お弁当の献立をどうしようかとかさ!! それより僕からあんまり身体を離すなよ。ただでさえこのリードはカラフルで他の人からは目立つんだから」


「オリザ、このおさんぽひもがとってもお気に入りだよ。天音あまねが私に作ってくれた。はんどめいどって言って」


「ああ、妹は裁縫が昔から得意だから。新しいワンちゃんをお迎えしたら絶対にハンドメイドで、首輪とリードをセットでプレゼントしたいって前々から言ってたんだよ。オリザが気に入ったみたいなら天音もきっと喜ぶんじゃないかな」


 散歩用のリードだけは親父からも外出するなら絶対に装着しろ、と提案された。


 その理由わけとしてまだオリザには精神的に情緒不安定になる瞬間があるそうだ。たとえばいきなり車道に走り出したりしないように僕が制御できる安全装置は必要だろう。


 ただ犬のように首輪はさすがに別のプレイみたいになるので、彼女の制服にある腰のベルト脇にちょうど頑丈な金属製のリングがあり、そこにリードの先端をうまく繋げることが出来た。


「さあオリザ。満足しただろう。そろそろ家に帰ろうか」


「……わん!! わたしたちのおうちにかえろう」


 飼い主の顔を歩きながら見上げる子犬のようなしぐさ。そこにちゃんといる? 私をひとりでおいていかないで!! きっとそんな想いが込められているのは本物の犬さながらだ。僕はまわりに目だだぬようにしっかりとリードを短く握り直した。


 彼女に繋がる一本のカラフルなリード。こんな無粋なかせなしでオリザと並んで歩ける日がはたして僕たちには訪れるのだろうか?


 我が家に新たな家族として迎え入れられた自分の犬と信じ込んでいる女の子。ある出来事によって以前の記憶の大半を喪失している。彼女の社会復帰が親父の目的だと聞いた。その一助に僕も尽力する。もちろん妹の天音も協力の快諾してくれた。先は長く険しい道のりかもしれない。


 ……僕は今朝、個室部屋で起こった寝起きの一件を歩きながら思い浮かべてみる。




 *******




 十二月に入って最大級の寒波が僕のすむ地域にも訪れた。親父からかなりの条件付きで借り受けた個室部屋は我が家の庭に母屋から独立して建っている。


「うおっ、布団の外さむっ!!」


 布団から出した左手の指先をあまりの室温の寒さにすかさず引っ込める。


 その関係かもしれないが以前使っていた部屋よりもかなり冷え込むんだ。父親が書斎代わりに使っていたときの室内温度はここまで寒くなかった。


 きっと僕の意向で部屋の模様替えをして親父の本をすべて運び出したからかもしれないな。部屋中の壁一面に薄高く本が積み上げられていたから、本棚と相まって分厚い断熱材がわりになっていたに違いない。


 親父の仕事は医者だが有名な大病院に勤務とか、医大の教授職兼任とかではないごく普通の開業医なので決して家庭が裕福ではない。それどころか親父は儲け主義でなく、現代の赤髭先生を気取っているのか貧困の家庭やお年寄り世帯を中心に訪問診療を主体に医療を行っている。


 普段のひょうひょうとした世捨て人のような外見からはとても想像もつかないが、困窮している人を放っておけない性分なんだ。そんな親父の背中をみて育った関係もあって僕にも人助けの分野で多大な影響を与えられているのは否めないな。


「……まだ午前四時半か。お弁当の仕込みに早すぎるな。もう少しだけ布団のぬくもりを堪能するか」


 妹の天音に持たせるお弁当、そして僕のぶん。いちおう今年は受験生のいる家庭だから、僕が家事をまかなうようになって半年以上が過ぎた。


 当初はひどい有様だった料理の腕も次第に上達してきた。庖丁を使わせたら人類史上最悪の使い手と天音から酷評され、指を怪我する前にとキッチン用のはさみを手渡された日が嘘みたいだ。いまでは利き腕の左用庖丁までそろえるハマりっぷりに自分でも驚いてしまう。


「昨晩炊いた寝かせ玄米はお弁当の個数分、炊飯ジャーの中に残っているよな。肉も解凍済みだし、野菜も冷蔵庫にストックがある。よし完璧だ」


 まさか自分が料理にハマるとは夢にも思わなかった。これまで母親のいない我が家では、忙しい合間をぬって訪問診療の空き時間に父親が一時帰宅して僕たちの食事を用意してくれたり、妹の天音が中学に上がってからはかいがいしく夕食の用意をしてくれたんだ。


 うちに帰れば食事が用意されているのが当たり前と思っていた自分はなんと愚かだったのだろうか。子供のころから周りがよく見えず鈍感な対応をして相手を傷つけた苦い経験も多かった。


 まわりの空気が読める妹の天音と僕はまるで正反対だったな。


 ふだん気にもとめないことが頭に浮かんでは消える。次第に眠りの中へ再度引き込まれていく。


 僕は大事なことを忘れていないか? お弁当作り以外にもっと重要な何かを……。


 布団の外が寒すぎて考えるのも面倒くさい。あと一時間くらい寝て起きてから考えればいいや。


 んっ、なんだか掛け布団が妙に重くないか? 特に胸のあたりにかけてまるで重石おもしを載せられたみたいに息苦しいぞ。ま、まさか金縛りか!? 僕には心霊現象を視る能力ちからは備わっていない。


「なっ、なにが起きているんだ……!?」


 ひ、ひいっ、僕の頬に突然、なま暖かい感触がぁ!! 幽霊が出る個室部屋だったのか!?


 金縛り状態に身体を押さえられたあとで、確実に顔を何者かに舐められた感触があった。、誰もいないはずの部屋で!!


「……わん」


「お、オリザだったのか。……でもどうして!! 君は昨晩妹の部屋で寝たんじゃないのか。なぜ僕の部屋に来た?」


「オリザ、天音の寝言でぜんぜん眠れなかった。まるで起きているみたいにいろんな言葉をしゃべって。だからご主人様の寝ている部屋に戻ってきた」


 僕の気がつかない夜中の間に個室部屋に戻ってきただって!? 彼女は昨夜みたいにベッドは使っていないはずだ。だとしたら部屋のどこで寝ていたんだ? 


 あたりに視線を巡らせるとソファーと壁の間にある空間。人がひとりやっと入れる隙間に毛布が無造作におかれていた。


「まさかオリザ、君はあの隙間で寝ていたのか……。窮屈すぎるうえに昨晩の寒さじゃあ、こごえて風邪をひいちまうぞ。なんで僕の布団の中に入ってこないんだ!!」


「オリザ、ご主人様の前ではおりこうさんにしたいから。おいでって言われきゃ布団の中にはいっちゃだめなの」


「……馬鹿だなぁ、あんまり僕に気を使いすぎるなよ。それに天音や親父にもさ」


「ほんとにいいの?」


「あたりまえだよ、オリザ。君はもう家族の一員なんだから。寒かっただろう、こっちにおいで」


「……わん!!」


「こらこら、オリザ。僕の顔をそんなに舐めるなよ。くすぐったいから!!」


 ……僕が慌てて顔をそらしたのはくすぐったいからだけじゃない。

恥ずかしくてまともには言えないけど、無邪気な子犬のようにたわむれてくる君をどうしても普通の女の子として妙に意識してしまうから。


 もしも想像上のしっぽが僕に見えるとしたら彼女はちぎれんばかりにをつかって喜びを表現していただろう。


「オリザ、ご主人様のためにもっともっとおりこうさんになる!!」

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