ご主人様の匂いを早く覚えたいな。もっとなかよししてもいいですか?

宣人せんとお兄ちゃん部屋に居るんでしょ。新しいワンちゃんのお顔を見に来たよ!! 中に入ってもいい?」


 こ、この嬉しそうな声は妹の天音あまね!? いま部屋の中に入ってこられるのは激ヤバだ。僕の身に起きた特殊な状況をうまく説明できる自信がないぞ!!


「……わん?」


 怪訝そうな表情を浮かべ、挙動不審な僕の顔をしっかりと見据える謎の女の子。個室部屋に置かれたベッドの上で話の成り行き上、僕は彼女と抱擁ハグをした状態のままだ。


 名前はオリザといっていたな。その真剣な面持ちはまるで飼い主の一挙一動を見逃すまいと視線を外さないお散歩前の愛犬さながらに思えた。


「と、とにかくオリザ、君は僕からその腕をはなしてくれないか。そんなにしっかりと抱きつかれたままでは身動きがとれないから!!」


「オリザ、ご主人様の匂いを早く覚えたい。なんでこのままじゃあだめなのかな?」


 彼女の目にふたたび悲しみの色がともり、それを目の当たりにした僕の胸中には罪悪感という蒼色の絵の具が、まるで筆を水ににじましたようにじわじわと広がっていく。


 いったい何なんだ。この沸き上がるような悲しみの感情は!? これまで僕のどこにしまい込んでいたというのだろうか……。


 まだ会ったばかりの見知らぬ女の子にいだく感情としてはあまりに大げさすぎやしないだろうか!?


「お兄ちゃん、外は寒いから中に入るよ」


「あっ天音、いま部屋に入っちゃだめだ!!」


「な~にわけの分からないこと言ってんの。お父さんからお世話係を任命されたからって、調子にのって可愛いワンちゃんをひとりじめなんて、この私が絶対に許さないんだから……んっ、あ!?」 


 よりによって妹の天音は個室部屋の正式な入口のドアからではなく、施錠されていない庭に面した大きな窓をあけて室内に入ってきた。遮光カーテンからにょっきり顔を出したまま完全に身体の動きが止まっている。


 ……考え得るかぎり最悪の状況だ。きっと妹の視界には調子にのって可愛い女の子をベッドでひとりじめにする、自称女嫌いのはずの嘘つき兄貴の姿がばっちりと映っているだろう。せめて入口のドアからならば部屋の仕切があるのでまだ時間稼ぎが出来たのに。


「あ、そういえば私は受験生だった。もっと勉強をやらなきゃ志望の君更津南きみさらすみなみ女子高校になんて合格できっこないよ。よしっ、自分の部屋に戻って勉強しなきゃ、勉強!!」


 妹の小脇から白い紙袋がぽとりと床に落ちた。その表情もまるで紙袋のようにまっ白くなっていた。天音の泳いだ視線からかなりの動揺が感じられる。全部見なかったことにしてこの部屋から早々に立ちさる気満々な態度だな。


 これから受験勉強するなんて動転して口走っているが妹よ、お前は完全に合格判定クリアしている身分で、僕の高校受験みたいにがつがつ猛勉強しなくても楽勝で受かるだろう。しかしこのまま天音と会話を交わさずに立ち去られても後々の説明がやっかいだ。


「おい、あ、天音!! これは違うんだ。変な勘違いするなよ。そ、そうだ彼女はこう見えても保護犬だ。この子はかわいそうな保護犬ちゃんなんだよ。僕の話を聞いてくれ!!」


「……わん!!」


 うわあ、部屋の中に人が増えて嬉しくなったのか、オリザの鳴き声から僕と二人っきりのときよりも興奮テンションが上がっているのを感じとれた。この嬉しげな鳴き声が妹にとってはどのように受け止められるかだ。


 それよりも親父のやつ、どうして天音にはこの部屋に通すまえにちゃんと説明しておかないんだ。くそっ、またなぞかけかよ。


「お、お兄ちゃんはうそつきだ!! なにが可哀想なよ。誰がどう見てもラブラブな彼女じゃないの。その証拠にベッドでしっかりと目と目で見つめ合っちゃってさ!! どうせ大の女嫌いって設定も、かまってちゃん的なキャラ付けだったんでしょ」 


「天音、とにかく落ち着け。ちゃんと僕の話を聞けよ。彼女の名前はオリザ、詳しい事情はまだわからないが天涯孤独てんがいこどくで住む場所がない可哀そうな状況だそうだ。それに親父がこの部屋まで連れてきたのは絶対に間違いない。僕が彼女を黙って連れ込んだわけじゃないんだ」


 僕たちの繰り広げる丁々発止ちょうちょうはっしなやりとりを、問題の当の張本人であるオリザは離れた場所から黙って眺めている様子だった。横になっていたベッドからいつのまにかソファーの脇まで移動している。壁とソファーの隙間にするりと身を滑り込ませ、ひざを両手でかかえた体育座りの格好で、交互に僕たちの顔を所在なげに見つめていた。


「……キュウ~ン?」


「また犬の泣きまねしてる!? け、結構、萌えるんだけど……。 でも本当にこの白いもふもふファーを着たワンちゃんコスプレ風の女の子をお父さんが家に連れてきたの? お兄ちゃんがこそこそ隠れてつきあっていた最近流行りの犬系いぬけい彼女とかじゃなくて!?」


「犬系彼女ってなんだよ? そんなの僕は知らないし聞いたこともないぞ」


「もうっ、そんなことも知らないなんて。宣人お兄ちゃんはめちゃくちゃ情報のアンテナが低すぎるから高校一年になっても彼女が出来……。ふうっ、もうこのセリフは言えないよ」


「天音、いつものお決まりのセリフだろ。途中まで言い掛けてやめるなよ」


「だ、だってもうお兄ちゃんをからかえないよ!! こんなにも可愛い犬系彼女がいるんだもん……」


「はあっ!?」


「女嫌いで変人の宣人お兄ちゃんに、まさか彼女が出来るなんてこの世の終わりかも」


 わなわなと握りこぶしをつくり、天音は全身で口惜しさを表現している。この世の終わりとかどんだけなんだよ。僕に彼女が出来たら地球最後の日が明日に来そうな勢いだ。妹は自分がまた彼氏とつき合った経験もなく、もっぱら女友達からの恋愛相談役に徹しているからなおさら僕に先を越されたのが悔しいんだな。


 でも妹よ、それはお前の大きな勘違いだ。目の前にいるオリザはまだ僕の恋人でも、その流行りの犬系彼女とやらでもなさそうだ。きっと彼女はもっと重大な悩みを抱えているに違いない。


 なぜだか理由わけはわからないが、オリザの吸い込まれそうな瞳の奥、その深淵しんえんにある悲しみの蒼色をのぞき込んだ僕にはそんな気がしてならないんだ。


 そして僕がさらに気がかりなのは、例の能力ちからが彼女にはまったく通じなかったという事実だ。他人の心の中に隠されたもっとも悲しい記憶をることが出来る僕の特殊な能力。ベッドで抱擁ハグした際に予期せぬ身体接触とはいえ完全に相手の記憶を読み込めるはずだった。自分から意識的に能力を遮断しなければこれまで失敗した事例はなかったからだ。


「二人とも大事なをあんまり待たせるなよ。いや今日から家族の一員になる大事な子供だったな」


 背後から突然声を掛けられ、振り向いた先には僕たちの父親、猪野誠治いのせいじが立っていた。


「親父、いつの間に!?」


「ああ、そこの開けっぱなしの窓からな。あまりにも話に夢中になりすぎてお父さんが入って来たのに全然気がつかなかったか?」


 そうだ、聞きたいことが山ほどあるんだ。意味深な親父のの件。我が家の新しい飼い犬と思っていたら、個室部屋のベッドには見知らぬ女の子が寝かされていた件。そして僕はオリザの素性すじょうについて何よりも知りたい。


 ……彼女と約束したんだ。今日から君のお世話係は僕だって!! 相手のことを何も知らないままじゃこれから一緒になんか暮らせないから。


「親父……」


 僕が口を開こうとした矢先、となりに佇んでいた妹の天音が親父にむかって一歩前に歩み寄る。クエスチョンマークを大量に抱えていたのは何も自分だけではなかったことに気が付かされた。


「お父さん、教えて!! 新しいワンちゃんはいったいどこにいるの?」


「……天音、お前の目の前にいるじゃないか。ほらソファーの脇で待ちくたびれて大きなあくびをしているぞ」


 親父の言葉にうながされ僕たちは視線を同時にオリザにむける。彼女は両方の手のひらを床のカーペットにつけて上半身で大きな伸びをする子犬のような格好をしていた。そして連発しそうなあくびをむにゃむにゃとかみ殺している。そんな無防備なしぐさがとても愛らしい。


 オリザ、そのままおりこうさんで待っていてくれよ。君について親父と大事な話があるからさ。


 僕も彼女のストレッチを真似して自分の頭の上で手を組んで一回大きな伸びをした。高ぶっていた感情がみるみる落ち着いていくのが感じられた。


「親父、まわりくどいなぞかけはもういい加減にやめにしてほしいんだ。僕には彼女オリザのことを知る権利がある。そして妹の天音にも」


「ああ宣人、お前を試すようなをして本当に悪かった。そして天音、お父さんが母屋で呼び止めても一目散にこの個室部屋へむかってしまったから、事前に真実を話すことが出来なかった」


「……お父さん、今回の重要な話ってそこにいる女の子のことなんでしょ。そして我が家の新しいワンちゃんはなんだって。それがなぞかけの答えだよね」


「天音、お前は昔から状況の呑み込みが早いだったな」


「うん、なんとなく理解しちゃった。私、子供の頃から空気を読むのは上手うまいんだ」


 普段の僕なら親父や妹の天音が突飛とっぴな会話を交わしても、悪い冗談を言っているんじゃないか。ってそんな話を一笑いっしょうに付しただろう。


 だけど今回だけは二人を笑えない……。


「オリザくんは私の無二むにの親友。その彼の一人娘なんだ。ちょうど宣人と同い年の十六歳でこれまでは隣町にある女子高に通うごくふつうのお嬢さんだった。だが先日親友が亡くなって彼の遺言に従い彼女を引き取ることになった。今日から家族の一員と言ったのはそういう意味だ。……そしてここからは当人の前で詳しく話せないが、途方もない悲しい出来事が起こって彼女は自分をだと信じ込んでいる。強固な記憶の上書きによって……」


 親父の話すなぞかけの答え。その言葉が妙にふわふわと現実感がない文字の羅列られつとなって僕の耳に流れ込んだ。


 ――自分を犬だと信じ込んだ少女、オリザ。


 彼女は僕たちが交わす深刻な会話をまるで気にもとめないそぶりで真っ暗な窓の外を眺めていた。その瞳はいったい何を見つめているんだろう……。

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