心の中にある悲しみの記憶なんて僕は視たくなかった

 十二月の上旬。

 僕、猪野宣人いのせんとは高校一年生の冬を満喫していた。なぜならば最近、我が家の離れにある場所をついに手に入れたからだ。


 朝日が差し込む渡り廊下を鼻歌交じりに歩く。あの場所を手に入れてから早起きになった自分に驚きを隠せない。これまで家族でいちばん朝寝坊の僕が早起きでお弁当作りだぜ。人は環境で変われるもんだな。僕は機嫌よく母屋へとむかい洗面所で顔を洗う。そして鏡に映る自分の顔をまじまじと見つめた。心なしか以前よりも引き締まって見えるな。


「一国一城のあるじっていうのはまさに今の僕のことだな、気のせいか鏡に映った面構つらがまえがぜんぜん違って見えるぜ」


「……な~に朝からアホなことを口走ってんのよ、宣人お兄ちゃんは。離れの個室部屋はもとからお父さんの所有物でしょ。そして間抜けな顔を映しているその鏡も、そしてこの家のローンだって!!」


 ちっ、うるさい奴に朝からひとりごとを聞かれてしまったな。洗面所の鏡越しに一つ年下の妹、天音あまねのしかめっつらと視線があう。子供の頃から伸ばした自慢の長い髪を後ろでポニーテールにまとめている。


「でも意外だな。お父さんは書斎代わりに使っていた個室部屋を、なんでお兄ちゃんなんかに与えるのかなぁ。あの部屋は玄関を通らずに直接、室内に上がれる最高な造りだから私もずっと狙ってたのにな、かなり残念なんだけど」


 そういえば鍵を受け取ったときに親父は妙なことを言っていたな。個室部屋は無料タダでお前に貸してやる、ただしがあるって。


「学校でカースト上位の天音にあの部屋を与えたら、いま以上に女友達を呼んで主催するお泊り会がエスカレートするじゃないか。めちゃくちゃやかましくて夜もおちおち寝てらんないんだよ」


「そうか、お父さんが宣人お兄ちゃんにあの個室部屋を譲ったわけがわかったよ!! 友だちの少ない陰キャのお兄ちゃんなら近所迷惑にならないしね。納得、納得」


 いたずらっぽい笑みを浮かべてこちらの肩に手をまわす妹を、僕はハエでも追い払うようなしぐさで撃退した。天音のポニーテールの毛先がまるで抗議のように大きく揺れる。


「天音、あんまりベタベタすんなよ。僕が身体に触られるの嫌いだって知ってんだろ」


「宣人お兄ちゃんのいけずぅ、兄妹きょうだいの何気ないスキンシップだよ。子供のころは天音、あまねぇ、ってベタコラ私を追いかけまわして抱きしめてきたのはそっちでしょ!!」


 ヤバいな、天音のやつ。僕の実証実験をしっかり覚えてやがる。中学三年生になってもいまだに身体接触が多いのはちと厄介だな。こいつもいっちょ前に最近、出るとこが出てるし。さいわいなのは例の能力が身内には発動しないってことだ。


「まあ、天音を覗いたってたかが知れてるか……」


「むうっ、いまのは聞き捨てならないド変態な発言だよ、宣人お兄ちゃん。私の着替えやお風呂で、女子中学生にしてはたわわなサイズの胸や形の良いおしりを覗こうと悪巧みしてたんだね。そうか、合点がてんがいったよ!! お父さんが個室の部屋を明け渡した件。きっと可愛い天音がお兄ちゃんの毒牙にかからないように先手をうったんだ。絶対そうに違いないよ……」


 小声で言ったつもりがしっかり地獄耳な妹には聞こえてやがる。まあ、な胸っていうのは天音の自称通りで目のやり場に困る程なんだ。でも覗きっていっても違う意味なんだけどな。絶対に真実は言えないけど、相手のもっとも悲しい記憶を覗くことが出来るのが僕の隠された本当の能力ちからなんだから。


「ば、ばか、誰が好き好んで妹の裸を覗くかよ。それにお前じゃなくても僕は中坊ガキなんかにはまったく興味がないし!!」


 成長途中な胸を両腕で隠しながら後ずさりする妹にあわてて言葉を投げかける。


「……宣人お兄ちゃんは年下に限らず、もともと家族以外の女性と接するのが大の苦手だもんね」


「おいおい天音よ、急に真面目シリアスな顔になんなよ。しゃれになんないだろう」


 これは図星だった。あの幼い日に保育園で経験した出来事が僕の中で深いおりのようにトラウマになっている。不用意に女性に触れて相手の悲しみの記憶がこちらに流れ込んでくるのがとても怖いんだ。


「あ~あ、もったいないな。宣人お兄ちゃんって黙っていればわりかしイケメンなのに。だから私のお友だちからぜひ紹介して!! なんて言われてもうちの兄貴は大の女嫌いだからって全部を断ってるんだよ」


 んっ、その情報は初耳だぞ。かなり聞き捨てならないな。


「おい、天音!! ちょっと待て」


「そんなことより知ってる!! 今日の夜、お父さんから私たちに大事な話があるんだって。きっと十二月だからアレだよ。サプライズイベントに違いないよ。ちょっと早いクリスマスプレゼントとか。天音の予想は新しいワンちゃんを家族に迎え入れるんじゃないかな。子供の頃、飼っていた先代のワンちゃんのときも事前に同じことをお父さんは言ってたから」


「重要な話だって!? 僕はそんなのぜんぜん聞いていないぞ。それに新しい犬を飼うって何だか親父のやつ勝手すぎないか。普通は家族である僕たち二人の了承が必要だろう」


「宣人お兄ちゃんはそんなふうにお固い思考回路だから、高校一年生になっても陰キャのままなんだよ。私たちに話していたらサプライズになんないじゃん。例えばサンタさんがクリスマス前に予告すると思う!? いまから良い子の君たちにプレゼントを届けるよ!! って子供たちに言うはずないでしょ」


 天音のやつ、普段は大人ぶってるくせに、こういうときにはサンタさんの例えを持ち出すとか昔から子供っぽい部分が抜けていないんだよな。


「とにかく学校が終わったら寄り道しないでまっすぐ家に帰ってきてよ。天音との約束だからね、宣人お兄ちゃん!!」


「わかったよ。……そうだ、お前の弁当、作ったらキッチン前のカウンターテーブルに置いておくから忘れないでリュックに入れて持っていけよ」


「サンキュー!! お兄ちゃんって家事だけは得意で助かるよ」


「だけってのは余計だ」


「じゃあもうひとつ宣人お兄ちゃんのいいところを追加するよ。度が過ぎるほどのお人よし、外で困った人を見かけたら立ち去れないタイプなんだから。いつも学校の帰りが遅いのはそのせいだよね」


「……それは僕の性分だから仕方がないだろ」


「本当にお兄ちゃんは変わっているよ。それなのに家族以外の女性と接するのが苦手だなんて、なんだか矛盾してるな」


 自分の言いたいことだけしゃべり終えて、妹はさっさとその場を立ち去ってしまった。ぽつんと洗面所に取り残された僕は再度鏡にむかってつぶやいた。もう誰にもひとりごとを咎められる心配もなさそうだ。


「……なんだよ、もう我が家ではペットは飼わないんじゃなかったのか!? 親父のやつ、犬のお墓の前で僕と約束したのをもう忘れたのかよ!!」


 先代の愛犬、その最後を看取ったときの感触が数年経ったいまでも僕の腕の中に残っているんだ。まるで眠っているみたいな安らかな死に顔。生命のぬくもりが少しずつ腕の中から失われていく。そして同時に襲いかかってくる深い悲しみ。


 あんなふうに激しく胸を引き裂かれるような想いはもう絶対にしたくない……。


 もしも自分自身にを使えるとしたら、きっとあの日の光景が映像として追体験されるのかもしれない。それほど僕の中で愛犬の死は悲しい記憶だった。


 そういえばあの不思議な能力ちからはしばらく体験していないな。意識的に自分で封印しているのもあるが、中学そして高校と成長するにしたがって外で抱擁ハグする機会なんて、欧米式のあいさつ習慣ではない生粋の日本人な僕にはほとんど存在しないからだ。


 それでも学校や日常生活で他人と不用意に身体接触することがまれにある。相手に個人差が存在するのかもしれないが、僕の脳内に不鮮明な映像が流れ込んでくるケースもあるので油断は禁物だ。


「僕の名前が宣人せんとじゃなく、もしも宣教師せんきょうしだったら人々の悲しみの根源を聞いて救いを与える尊い存在になれたのかもしれないな」


 自分でつぶやいた趣味の悪い冗談に思わず苦笑いをうかべてしまう。


『……宣人、あなたは自分の能力の使いみちを誤っている。正しい道を進むべきよ』


「なっ……!? いまの声はどこから聞こえたんだ!!」


 若い女性の声だった。慌ててあたりを見回しても誰もいない。もちろん妹の天音の声とも違っていた。思わず自分の額に手を当てる。例の能力じゃない。その証拠にあの嫌な片頭痛は起こさなかったからだ。


「いったいあれは誰の声だったんだ……」


 次回に続く。




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