君に降り積もる雪のような悲しみの記憶に僕は触れたくなかった。~可愛い子犬を飼うはずが黒髪清楚な美少女となぜか同棲生活が始まった件~

kazuchi

【本編プロローグ】 僕は女の子を抱きしめることが出来ない。

「き、君は誰なんだ!? なぜ僕の部屋のベッドで寝ているの!!」


 思わず息をのむような美少女が子犬のように軽く小首をかしげながらこちらを見下ろしていた。年のころは自分と同じくらいに思える。陶器のようなまっ白い顔。その頬にほんのりと赤みがさしていた。


 さらに首をかしげた拍子に彼女の長い黒髪の先端が垂れさがってくる。しなやかな毛先がこちらの頬に触れた。とてもくすぐったい感触にとまどいを覚える。


「ご主人様。あなたにもっと甘えてもいいですか?」


 むぎゅっ!!


「か、顔に無理やり身体を押しつけるなぁ!!」


 相手のもふもふした白いパーカー越しに感じるその服の感触よりもさらに柔らかな身体をこちらの顔面に押し付けられて、頭に血が上るのを自分でも分かる。予期せぬ女の子との身体接触に僕は完全に無防備な状態になってしまった。


「だめだ、相手と不用意に抱擁ハグをしちゃいけない!!」



 *******



 僕には誰にも言えない秘密の能力ちからがある。


 相手が心に抱えたもっとも悲しい記憶がえる。


 ああ、特異体質という言い方のほうが適しているのかもしれないな。

 初めてその能力が僕の身体に起こったのはものごころがついた頃だった。幼稚園に入園した日の教室での出来事は今でも鮮烈に覚えている。確か僕が四歳くらいだったはずだ。


宣人せんとくん、今日からお友だちがたくさん出来たね!! せんせいとも仲良くしてくれるかな?』


『いいよ、ぼくとなかよしだ!! せんせいはきれいでいい匂いがするからとってもすきだよ』


 それまで父子家庭で母親のぬくもりを知らずに育った僕は、若い女性の保育士から話しかけられて有頂天だった。人見知りな性格のくせに普段、家では見せない行動に走って保育士さんに思いっきり抱きついてしまった。きっと幼い子供特有のはしゃぎっぷりだったのだろう。


『えっ……!?』


 突如、落雷に打たれたように小さな身体が硬直する。保育士の首にまわした僕の左腕が小刻みに震えだすのを止めることが出来ない。


『ああああっ!! いやだよ。怖い顔した知らない男の人にぶたれる。ぼくは何も悪いことをしてなんかいないのに!!』


『……せ、せんとくん、どうしたの!? 男の人なんか近くにはいないよ!! きゃあ!! そんなに腕を振り回して暴れちゃだめだよ!!』


 僕の予期せぬ行動に激しく狼狽ろうばいする彼女。目を見開いて僕を見据える表情にあからさまな驚きの色が浮かぶ。


 僕の頭の中にまるで川の濁流だくりゅうのようにいっせいに押し寄せるモノ。それは見知らぬ記憶の映像だった。素人のカメラマンが撮影した子供の運動会みたいに視界の隅に映し出された画面全体が上下左右に揺れまくっている。そして頭を激しく揺さぶられる感覚に襲われた。同時に片頭痛みたいな不快感に思わず意識が遠のきそうになるのを握りこぶしを作って必死にこらえる。


『ちがう!! これはぼくじゃない』


 映し出された強烈な映像を自分の視点だとすっかり勘違いしていた。球体スフィアをぐるりと反転させるように頭の中でカメラアングルが変化する。


『せ、せんせいがなんで怖い男の人にほっぺたをぶたれているの!?』


『せんとくん、いったい何を言ってるの、せんせいはわけが分からないよ!!』


 見知らぬ男から頬を殴られているのは僕ではなかった。記憶の映像に映し出されていたのは、保育士が嗚咽を漏らしながら男にむかって許しごいをしている光景だった。泣きはらした彼女の白い顔がとても痛々しい。


 その映像を視た直後に僕は保育士の腕の中で意識を失った。


 そんな出来事は当時、幼かった僕の心に女性に対しての激しい恐怖トラウマを植えつけるには充分だった。今にして思えばあの追体験した映像は恋人同士の痴話喧嘩。それも男のほうがDV気質な糞野郎だったに違いない。


 まるで太陽の輝きのごとく明るく見えた若い女性の保育士。彼女の心の中にあるもっとも悲しい記憶を僕は不思議な能力ちからで追体験したのだろう。


 その後、僕は成長するに伴っていくつかの実証実験テストを試してみた。そして確証が持てたのは、この能力を発動するには一定の決まりごとがあるという事実だった。


 対象の人物に抱擁ハグをすることで能力は使える。視たくないときは意識的に記憶の流入を遮断出来るすべもいつしか身につけた。


 なぜ僕が追体験した記憶が相手にとってもっとも悲しい記憶と分るのかは、実験の過程で得た結果だった。それについては説明が長くなるのでまたの機会に後述させてくれ。


 父親、ひとつ年下の妹、同居する僕の家族にはこの能力は使えなかった。いちばん抱擁する機会が多いのは家族だが、何度試しても記憶の流入は起こらず、小学生時代の妹を実験と称して抱きしめすぎて、めちゃくちゃ妹を溺愛しているシスコンの兄だと勘違いされたのも本人に真実は言えないが自分の中ではいまでもお笑い草な話だ。


 まれに抱擁ではなくて日常生活で起こる軽い身体接触で、この能力がふいに発動することもあったが、自分でもまだ解明されていない不確定マイナス要素が怖くて多用はしなかった。


 例えるならば暗い話題のテレビニュースや、webでの書き込みを見ると自分の気持ちまで引っ張られる経験は誰しもあるだろう。 僕の持つ能力は発動させるとその後で何十倍も陰鬱いんうつな気持ちにさいなまれるんだ。子供ながらの直感で精神や肉体に与えるダメージがあると考えた僕は中学校入学目前にこの能力を意識的に封印した。


 他の理由はあまりにも使いみちのない能力だと思えたからだ。相手の心に抱えるもっとも悲しい記憶が視られたって、それを知ったところでいったい何の得になる? 僕は将来カウンセラーになるつもりはなかった。もしもこの秘密を誰かに打ち明けたとしても気味悪がられるか、かなり危ない奴だとレッテルを張られてしまうのが関の山だろう。


 僕はこのまま一生恋もせず、そんな不思議な能力を使わずに平凡な日常生活を過ごしていくつもりだった。


 そう、高校一年生の冬。捨てられた子犬みたいな目をした出会うまでは……。


 ――僕は君が心に抱えたもっとも悲しい記憶なんて視たくなかった。

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