第2話 果

 雨音しか聞こえぬ道観の房室へやを回り、どうにか火桶を見つけることができた。幸い懐の火折子は濡れていなかった為、それを使って火をつける。

 火桶で服を乾かしながら、いそいそと奪ってきたばかりの奥義書を開いた晦師茗かいしめいは、顔色を変え力任せに冊子を叩きつけた。


「くそっ! 何ということだ!」


 床に広がった白い紙束を忌ま忌ましく睨みつけ、精一杯の悪態をつく。

 想定以上の苦労を重ねた末に手に入れた奥義書は、ただの白紙――つまり、偽物だったのだ。


(誰の入れ知恵なのかは分からないが、やってくれたものだ)


 徒労感に溜め息をつき、しかしすぐに気を取り直す。

 また、盗めばいいのだ。今は逃げ切ることだけを考えよう。

 雨音を聞きながら眠りに入りかけた頃、雨の音に交じって誰かが戸を叩いていることに気づく。逡巡ののち殺す決意を固めたが、それより早く扉の向こうから言葉が投げかけられた。


「大変です、観主様! 人が、人が死んでおります!」


 声の主は若い男のようだ。

 暫し迷ったが「お待ちください」と扉越しに告げ、急いでつられていた人形の元へと駆け寄った。手早く法衣を剥ぎ取り、身に着ける。人形は形を解いて藁束に戻しておいた。


 観主に成り済ました晦師茗かいしめいは渋々ながら扉を開けて来客を迎え入れる。立っていたのは想像していたよりも更に若く見える青年だった。誠実そうで真っ直ぐな瞳、溌溂とした口調を聞くだけで、その男の誠実そうな人となりが感じられた。


「観主様。嵐の最中に突然押しかけたことお詫び致します。井戸を借りようとしましたら、井戸桶とともに死体が上がってきたものですから、驚いて知らせに参った次第です」


 若者は蔡晧さいこうと名乗り拱手する。途中で土砂に飲まれかけたといい、確かに彼の短袍は雨と泥とで濡れ切って黒ずんでいた。


「死体は、恐らく道観の道士だと思うのです。どうか確認いただけますよう」


 そう言われては嫌だとは言えぬ。

 仕方なく風雨の中を嫌々ながら井戸まで歩いて行く羽目になった。

 道観内に油紙傘ゆしがさはあったが、雨の激しいさまを見ればとても傘で間に合うとは思えない。それでも無いよりはまだましだということで、傘を差し竹葉の影を縫うようにして二人は井戸へと向かった。


 ――なるほど、確かに死んでいる。


 雨に濡れた見知らぬ死体を見つめながら晦師茗かいしめいは考えた。

 恐らく井戸から出したときに濡れたのだろうが、死体は既に冷たく腐臭が微かに鼻に突く。まだ春を超えたばかりであることを考えれば死んで数日か。

 男は髭を生やした中年で、体には無数の古傷があったが過去の拷問によると思われる傷もある。道士というには少々血なまぐさい。代わりに新しい傷はあまり見当たらなかったが、胸元に深い刺し傷が一つあった。恐らくはこれが致命傷だろう。

 つまり男は抵抗も出来ず一撃で殺されのだ。


「いかがですか? 観主様」


 蔡晧さいこうが答えを求め、晦師茗かいしめいを見る。


「ええ。ええ。なんと可哀そうなこと。この者はこの道観の道士でした。一体何故このようなことに……」


 男を殺したのはこの男なのではないかという疑念が擡げつつも、晦師茗かいしめいはそれをおくびにも出さぬよう努めた。


    *


 雨で冷えた身体を温めようと、湯を沸かすため回廊を通り厨房に行こうとした晦師茗かいしめい蔡晧さいこうの二人であったが、雨の向こうに見える焚帛炉ふんはくろに目を留めた。

 何方ともなく、中に積み上げられている何かに気づいたのだ。


「観主様。焚帛炉ふんはくろの中に見えるものは、一体何でしょう? 紙……には見えませんよね」


 蔡晧さいこうが問うも、晦師茗かいしめいは答えられない。焚帛炉ふんはくろはそもそも紙を燃やす場所であり、ある物といえば紙束だろう。しかし、遠目で見たそれは明らかに紙束とは異なっていた。


(そうだ、こいつに探らせて、問題があれば背後から襲い掛かれば殺しやすい)


 そんなことを考えた晦師茗かいしめいは「様子を見て貰えませんか?」と蔡晧さいこうに頼む。蔡晧さいこうは「分かりました」と二つ返事で頷いた。晦師茗かいしめいの差し出した油紙傘ゆしがさを受け取って蔡晧さいこうが雨の中歩き出すと、すぐに晦師茗かいしめいもその後に続く。


「これは……」


 彼が言葉を詰まらせた時点で、おおよそ好ましくない物なのだと察した。次いで中を見て、何故房室へやの中に血の跡はあれど死体が全く無かったのかを理解する。

 焚帛炉ふんはくろの中に積まれていたのは大量の死体だった。

 恐らく、血のついていた房室へやで死んだ者はこの場所に集められていたのだ。この場所に積んだのは後々燃やすためであったのだろうか。


「本当に、この道観は一体何なんだ……」


 思わず自分が観主になりすますことも忘れ、晦師茗かいしめいは呟く。


「死んでいるのは男たちばかりのようですね」


 蔡晧さいこうに言われて気づいたが、確かに死んでいるのは男だけ。

 そのうちの幾人かは手の形状に特徴があった。恐らく剣を握っていたのだろう。誰かが死んだあと、握りしめたままの剣を手から無理やり外したのだ。

 男たちの身体には大なり小なり傷がある。その傷も掌から剣、槍など多岐に亘っており、この人数から考えても毒で死んだとは思い難い。

 ただし、多くの者の致命傷が剣であることから、井戸の人物を殺した者と同一人物、そして剣を扱う者の仕業である可能性が高い。そうなると殺されたのもほぼ同じ頃に違いない。


(観主の服は人形に着せられていた。ならば観主はどこに消えたんだ? それに、ここで死んでいる者たちも……。どう考えても道観の道士とは思えない)


「観主様はこの方々が何者か、何が起こったのかご存じではないのですか?」



 蔡晧さいこうは立ち上がると晦師茗かいしめいに尋ねる。晦師茗かいしめいも当然、知るはずが無いので首を振った。


「私はしばらくこの道観を離れていたもので、全く何が起こったのか分からないのです」


 かなり投げやりで適当な言い訳だったが、目の前に積まれた死体を前にして、いい嘘も浮かばなかったのだ。


「この男たちは、互いに争い合って、結果死んだのではないでしょうか?」


 晦師茗かいしめいは言葉に詰まった。互いに争い合って死んだというのは尤もらしく聞こえるが、全員が一撃で死んでいることに説明がつけられない。


「それは……私にも分かりません」


 しかし、それを口にしたら自分が江湖の者であると知られてしまう。

 結局晦師茗かいしめいは何も言わず、そのまま口を噤んだ。


    *


 男が死んでいたという井戸の水を飲む気には到底なれない。幸運にも貯め置きの水がめを厨房で見つけることができた。

 今は観主の振りをしている手前、客人をもてなす義務がある。慣れぬ手つきで湯を沸かし茶を淹れた晦師茗かいしめいは、広間で休む蔡晧さいこうに茶を運んだ。

 蔡晧さいこうは外の景色を眺めていたが、晦師茗かいしめいに気付くと爽やかな笑みを見せた。


「観主様の御手を煩わせてしまい申し訳ありません。ずぶ濡れですっかり冷えておりましたので、生き返る思いです」


 こうして見ると、人の良さそうな好青年といったところか。にもかかわらずどこか底知れないものを感じる、不思議な男だ。

 己の正体が露見する前に、早々にこの男を殺したい。いま殺すか、いつ殺すか――その考えばかりが堂々巡りする。


「大したもてなしもできず申し訳ありません」

「このような事態ですから」


 蔡晧さいこうは首を振り、仕方のないことでしょうと言う。

 それにしても、この男は謎が多い。たまたま立ち寄ったふうを装っているが、彼の出で立ちは長旅をするような装いでもなかった。


「蔡様はこのような荒天の中、何故この山に?」


 晦師茗かいしめいはそれとなく蔡晧さいこうに尋ねる。


「この先に、青霓派の流れを汲む雲泰門があることは、観主様もご存じでしょうが……」


 温かな茶を飲み、蔡晧さいこうは煙る息を吐き出すと晦師茗かいしめいに顔を向けた。


「時の皇帝が雲泰門の奥義書を奪いに軍隊を率いてやってくるという、とんでもない噂が江湖で広まりました。雲泰門の門主と私は旧知の仲であり、彼らの力になるべく、雲泰門へ向かうところでした」


 その話が本当なら、彼は一足遅かったといえよう。

 奥義書の中身は白紙の偽物で、骨折り損にしかならなかったが、晦師茗かいしめいは既に雲泰門を襲撃したあとだったのだから。


「雲泰門は今でこそ他の門派の影に隠れがちですが、『鋒神経』といえばかの無双翔侠が残した知る人ぞ知る奥義書。奪われてなるものかと思う者も少なくはありませんでした」

「しかし、それでは我先にと奥義書を狙う者が増えて大変なことになったのでは?」


 襲撃した当時、想定よりも遥かに場が混乱していなかったことを思い出しながら蔡晧さいこうの言葉に晦師茗かいしめいは言葉を返す。人というのは傲慢で欲深いもの。あれほど奥義書の噂を流したというのに、誰一人奥義書を狙わぬなどということがあるものだろうか。

 そんな晦師茗かいしめいの考えをよそに蔡晧さいこうはもっともだ、とばかりに大きく頷く。


「ええ、ある意味大変なことになりました。……奥義書を狙う者たちは軍隊から民を守るという名目で近隣の寺院や村を占領しました。大義名分を携え押しかけた彼らは、守ってやるといいながら好き放題暴れ――そして根こそぎ食料や金品を奪い去る。殆ど奥義書にかこつけた強盗のようなものです」


 蔡晧さいこうの話に、先程の死体の正体が分かったような気がした。

 死体は恐らく、大義名分を携え道観を占領した者たちなのではないか。そう考えると、この道観で起きた異様な一連の出来事の謎が解けていくような気がした。


 仮に蔡晧さいこうが言うように、偽善の集団が道観に押しかけたと仮定する。

 道観の食事がいかに質素であるか、大概の人間は知っている。彼等は近隣の村々から食料や酒そして金品を強奪しており、体のいい宿の代わりとして道観を占領したのではないだろうか。

 金品については、転がっていた銅銭からも察しが付く。

 彼等は我が物顔で道観に居座り、奪った食料と酒で酒盛りでもしていたのではないだろうか。道観の中に空の酒がめや肉などが散乱していたことからも想像に難くない。

 そして、厨房が殆ど荒らされていなかったことも。

 柄の悪い男たちが集まれば諍いも起きる。ましてや彼等は腕に覚えのある侠客達だ。すぐに腕自慢だか言いがかりだかで争いになったに違いない。

 死者の身体にあった傷の大半は、それが理由であろう。

 ならば全員を葬ったのは誰なのか?

 そして彼らの事情を知る男、蔡晧さいこうという男。


「私は、思います」


 蔡晧さいこう晦師茗かいしめいに言った。


「奥義書とはこうも人を狂わせるものなのか、と。……雲泰門は昔の名声はさておき、今はどちらかといえば弱小の門派。もし対策を採ることもせず今日という日を迎えていたのなら、それこそ全滅は免れなかったでしょう」


 俯く蔡晧さいこうは茶を一口飲むと続ける。


「かつて連剣門が皆殺しの憂き目に遭い、滅びてしまったように」


 この言葉は晦師茗かいしめいの心を刺し貫いた。

 動揺を悟られぬよう、二度三度呼吸を整えたあと晦師茗かいしめいは口を開く。


「そのようなことが? 初めて知りました」


 勿論、皆殺しにしたのは彼自身だ。しかし、その動揺を目の前の若者に悟られてはいけない、そんな気がした。


「はい。今からもう十五年も昔のことです。その門派は、やはり名門には及びませんが、江湖ではそれなりに知られた存在でした。中でもかの掌門が書き記したという『連舞五式』は、江湖に身を置く者なら一度くらいは聞いたことがある代物です」


 蔡晧さいこうはそこまで言ったあと、「あっ、観主様に江湖の話をお話ししても分かりませんよね」と、慌てて詫びる。


「噂くらいは聞いたことがあります。ですが、十五年も昔であれば、貴方様は子供でしょう。そのような昔の話をよくご存じですね」


 実は、晦師茗かいしめいの脳裏には一つの考えが浮かんでいた。


(もしかして、この男は連剣門の倅ではないか?)


 当時確かに掌門には倅がいたが、五つにも満たぬ年頃であったと記憶している。殆ど赤子同然の状態しか覚えがない状態で状態で十五年経った今、当時の面影を見つけることなど不可能に等しかった。

 しかし、もしもだ。もしもあの時の子供が今も生きていたのなら、丁度この男くらいの年齢だろう。


(この男、本当に何者なのだろうか)


 先ほど蔡晧さいこうは門主の力になるために雲泰門へ向かうところだと言っていた。晦師茗かいしめいは彼が間に合わなかったと思っていたのだが、仮に彼が間に合っていたとしたら……?

 そうだとすれば、全ての事情が変わってしまう。

 その瞬間、ぞくりと寒気が背筋に走り、反射的に晦師茗かいしめいは身を捩らせた。

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