因果応報にして、報いを受ける
ぎん
第1話 因
蒼穹は黒雲へと変じ、天上から雨が降り注ぐ。篠突く雨は留まることを知らず、あらゆるものを押し流した。
嵐の最中、
にもかかわらず大幅に計画が狂ったのは、ひとえにこの大雨のせいに他ならない。忽然と降り出した春過ぎの雨は激しさを増し、彼の実力をもってしても山を下りることは容易ではなかったのだ。
こんな筈ではなかった。
数刻前の出来事が脳裏に蘇る。
青城山のほど近くには切り立った山があった。そこは青霓派の門下である雲泰門の拠点があり、現門主より二代前の門主である『無双翔侠』は比類なき強さであったと伝え聞く。当時は雲泰門の全盛であり、その名を武林に轟かせたという。今となっては随分と昔の話であり記憶に残すものは数少ないが、それでも彼が生前残した『鋒神経』は知る人ぞ知る奥義書である。
江湖の者であれば、一度は奥義書を手にしたいと願うもの。
紹華宗の宗主であり『華剣絶鬼』の渾名を持つ
しかし、いかなる手を使っても奥義書を欲し集めたがるのは、彼の悪癖の一つでもある。
その始まりは今より十五年ほど前。五手五招式で全ての技を制すとまで云われた連剣門の奥義書『連舞五式』を欲するあまり、随分と汚い手段を使って一門を皆殺しにしたことに端を発する。
当時の情勢が荒れていたこともあり、ことは有耶無耶のまま終わったが、多くの奥義書を奪った彼の経歴の中で連剣門の一件はひときわ暗い。
此度の件で彼が使ったのは、『鋒神経』を皇帝が貰い受ける為に軍隊を率いてやってくるという荒唐無稽な噂。普通なら信じぬ話だろうが、噂というのは荒唐無稽なほど広範囲まで広まりやすい。不安に駆られた者たちは疑心暗鬼に陥るだろう。そして、奪われるより先に奪おうと考えるに違いない。
その混乱の隙をついて、雲泰門に忍び込み盗み出す算段を立てたのだ。
計算外だったのは相手が完全に襲撃を予想していたこと。いざ雲泰門に来てみれば奥義書を狙う人間は誰一人おらず、待っていたのは雲泰門の一番弟子や他門派の精鋭たちだったのだ。
予想以上の苦戦の末に、辛うじて『鋒神経』を盗み出すことができたのだが、そこからがまた無望之禍である。
轟く雷霆。貫くような雨が矢継ぎ早に体に打ち付けて、視界は前も見えぬほどの雨に奪われる。まごまごしていては追っ手がきてしまうかもしれない。仕方なく木々で雨を凌ぐように山道を進む羽目になったが、災難はそれだけに終わらなかった。
崖と崖とを繋ぐただ一つの手段である吊り橋が、豪雨で川が氾濫したことにより完全に流されたのだ。おまけに至るところで土砂崩れが起き、迂闊に歩き回ることもできない。
様々な事情を鑑みた末、
森の奥に灯る明かりを見つけ、ここなら雨風も凌げるだろうと胸を撫で下ろす。警戒しながら近づいてみれば、どうやら道観のようだ。これ幸いとばかりに、道観の中で一晩夜露を凌ぐことに決めた。
人気のない山門を超え、門扉を叩くが返事はない。意を決して押せば難なく扉が開く。
開いた先に見えたのは吊り下がった人間だ。瞬時に死体だと思ったが、どこか違和感を覚える。
警戒しながら近づくと、それは人に似せただけの藁であった。ただし、人形が身に着けているのはれっきとした法衣であり、恐らくは道観の観主のものではないか。
ならば、一体誰が何のためにこの人形を吊したのか?
観主は一体どこにいるのか?
道観の中は静かなもので、ざっと見回したところ人の気配は見つからない。
(そうだ、先ほどの灯りは一体どこから?)
遠くから見た灯火の正体を建物の中に求めたが、やはり一望する限りでは人も、そして灯りも見つけることはできなかった。
道士不在の道観の中、死体に見立てられた人形。
奇妙な事はそれだけではない。濡れない程度に幾つかの
念のため厨房も確認してみたが、床に穀物が散っている以外は実に綺麗なものだった。
人の痕跡はある、しかし誰も居ない。
実に不気味な事だと思ったが、却って好都合。
疑念はいったん脇に置き、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます