第8話 逸物の鷹は放さねば
――いつも、暗がりの中にいた。
薄暗い部屋でベッドの中に潜り込んで、時折スマートフォンをいじる。
「ゲームでも読書でも、なんでもいいから……なにか、してみたらどうかな」
柔らかい言葉だった。
危ないことはしないでね、と付け足されたその言葉に、のそりと起き上がった俺は。
その日、「ディスパリティー・ウォー・オンライン」、通称「デス戦」をインストールして。
インストール時間の長さに悪態を吐くことすらなく、ただひたすらに、ぼんやりとパソコンの画面を見つめていて。
『私はスラム街で生まれた。……驚いたか?』
現実感の無いまま、ゲームを進めた。
『知らなかったことを、いまさら言い訳にはしない』
彼女は、その名を「オニキス・ロベール」と言った。
『私にとっての正義は破壊だ。破壊による救済だ。過去の自分を救済したいと思う――それの、なにが悪い?』
――涙は枯れたと思っていた。
『君にとっての正義を、私は否定はしない。私は君を否定しない。ただ……これだけは言える』
なぜか、わけもなく、涙が零れた。
『私は決して悪ではない。どちらが勝とうと、私たちが紡ぐ未来は、明るいということだ』
俺は、そのデタラメな正義に、救われた。
***
「……懐かしい夢を見たな」
王城の一部には、騎士団本部が設置されている。俺はどうやら、騎士団本部の指令室で眠りこけていたようだった。
ざっくり言うならば、俺が引きこもりだった時代の記憶だった。目が覚めてしまったために夢の内容についての詳細はもう覚えていないのだが、過去の自分についての話だったことは覚えている。
夢というものはてっきり妄想に近い非科学的な代物ばかりを見せてくると思っていたのに、過去の記憶を見せてくるとは……なかなかに質が悪い。なんとも無粋なことをしてくれたものだ。
「ジョンさま、よろしいでしょうか」
ノックと共に、グラントの声が聞こえた。俺が入室を促すと、控えめに扉が開く。この精悍な顔立ちをした黒髪の青年が、グラントだ。
「どうした?」
俺が問いかけると、グラントは俺の執務机まで近付き、無言のまま、懐から一通の紙を取り出した。
「……退職届です」
スッと綺麗な所作で差し出されたそれには、この世界の言葉で、たしかに「退職願」と書かれている。
「……そうか」
机の上に差し出されたそれを手に取って眺めたあと、俺は退職願を受理する旨のサインをした。
「ディンティールの退職は、なかなかの痛手だな。出世したばかりだというのに、本当に良いのか?」
「上の失脚で出世できただけです。自分の実力ではありませんから」
「はは、耳が痛いな」
俺の言葉にハッとした表情をしたグラントだったが、終ぞ口を開くことはなく、彼は沈黙を貫いた。
オニキスの失脚により、オニキスより下の役職に就いていた面々はひとつずつ位が上がっている。俺は騎士団長へ、グラントは参謀――実質的な副騎士団長へ格上げされた。つまり、グラントの退職は、副騎士団長の退職を意味するのだ。
「ちなみに、退職の理由を聞いても良いか?」
「……自分は……」
グラントは俺の問いかけに少し迷う様子を見せた後、口を噤んだ。俺は彼を見つめながら、ただ、じっと待つ。
「……自分は、ジョンさまやオニキスさまに憧れていました。きっと、今でも憧憬の念は枯れていません」
グラントは伏し目がちにそう言うと、強い意志を宿した目で俺を見据えた。
「憧れています。でも、現状には納得できていません。それが、退職の理由です」
――グラントには、たしかに悪いことをしたかもしれない、と思った。
グラントはオニキスや俺を慕ってくれていた。特に、俺との付き合いはそこそこ長い。だが、オニキスは指名手配犯となり、俺は悪逆非道の限りを尽くしている。そんな現状に我慢ならなくなった、ということだろう。
つくづく、真面目な男だ。市民を守る騎士として、これほどまでに優れた人材を、俺は知らない。
「そうか。話してくれて、ありがとう」
俺がそうやって礼を述べても、グラントは緊張した面持ちを崩さない。たしかに、最近の俺は昔の俺とは違う雰囲気を醸し出している。グラントからすれば「ジョン・カマルという人間は悪いほうに変わった」のだ。そんな相手に、曖昧な言い方だったとはいえ、「憧れてはいるが今のお前には満足していない」なんてことを言い放ったのだ。
俺は思わず笑った。これは、気を抜け、というほうが無理な話だろう。そう、「ジョン・カマルは変わった」のだから。
「下がっていい。いや、もうグラントは部下じゃないのか」
部下じゃない相手に命令するというのは、なんだか落ち着かない。不思議な感覚だ。
「今までお世話になりました。ジョンさまから授かった機会、そのご恩……このグラント、一生、忘れることはありません」
「ははは、大げさだよ。ちょっとスカウトしただけだろ。ここまで来れたのは、紛れも無くグラント自身の努力と才能だ」
じゃあね、と俺は言った。グラントが、一礼してから、退室する。
グラントが退室するとき、彼がどこか名残惜しそうに見えたのは、きっと俺の気のせいだろう。
「……ひとまず、計画通りか」
暴君と化した俺の周囲からは、少しずつ人が離れていくはずだ。これは、最初から計算の中に含まれていたことである。
騎士団が弱体化すれば、プレイヤーであるルージュと、ラスボスであるオニキスが、共に手を組んで王城まで辿り着きやすくなるだろう。王城、すなわち、俺がいる場所である。
「そもそも騎士の数が多すぎて王城まで辿り着けませんでした、じゃあ困るしね」
ルージュとオニキスには、俺のもとまで辿り着いてもらわなければ困るのだ。そして、オニキスはともかく、ルージュには俺を倒せるほどに強くなってもらわなければいけない。
「……そういえば、遺跡の話、どうなったんだろ」
当然のことながら、俺が貧民街に出向かなければルージュと情報を共有することはできない。なぜなら、ルージュは俺の正体を知らず、俺への連絡手段を持たないからだ。
「行ってみるか、冒険者ギルド」
貧民街で居るかどうかも分からないルージュを探すより、冒険者ギルドに直接出向いたほうが話が早いだろう。
俺はイベントリからいつも着ているフード付きマントを羽織って、そっと執務室を後にした。
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