天に向かって何かが飛んでいく。

 そんな気配があった。

 それは二度小さく光を放った。まるでバイバイと手を振るかのように。

 気配が遠ざかっていく。

 遥か彼方へ。

 そして途切れた。もう何も感じることができなくなった。

 傍にいる小次郎の姿が消えた。

 だけどそれは小次郎が消えたのではなく、陣に見ることができなくなっただけだ。

 陣は実家のかつての兄弟の部屋に立っていた。記憶にある二段ベッドはもうそこにはない。

 いつの間に点けたのか、部屋の明かりが灯っている。

 陣は自分の右手に握っているものを見た。去り際に明人から授けられたものだ。

 それは家族写真だった。両親、陣に明人、小次郎もいる。

 みんな楽しそうな笑顔だった。小次郎は何か食べたそうにしている顔。

 これが兄から受け取った最後の品だった。

 廊下から足音が聴こえてきた。部屋のドアが開く。

「陣?」

 母の驚いた顔があった。

「いつ来てたの? 何も連絡しないで」

「ああ、うん」

 母は陣のことを認識している。名前も忘れていない。

「あのさ」

 言いながら陣は手に持った写真を掲げる。

「この人、誰かわかる?」

 陣は指で写真の中の明人を示した。

 母は難しい顔になって写真を見つめる。

「陣、じゃない。陣はこっちにいるもんね。誰だろ?」

 母は陣のことを思い出した。

 だけど兄のことはわからなかった。

 陣は、兄のことを覚えている。

 それで、よかった。

 一人でも覚えている人間がいて。

 ウィーン、ウィーン、とスマートフォンが音を立てて振動した。

 陣はスマートフォンを取り出した。その後も通知が鳴り止まない。

 知り合いから続々とメッセージが届いていた。

 陣は戻ってきた。

 あの『駅』から始まった、長いようで短い冒険だった。



 翌日、陣は中華料理屋の『加油ジョヨウ』にいた。その場にはいつものメンバーが揃っている。

「ジャンジャン食べてくださいネー!」

 中国人留学生の王さんがテーブルに料理を運んできた。前菜に、点心。炒め物。普段は滅多に頼まない北京ダックまである。豪勢だ。

「陣くんと一緒に食べるの久しぶりな気がするなあ」

 黒崎が紹興酒を片手に言った。

「なんだか無性に陣くんに会いたくなって、ラブコールまでしてしまったよ」

「俺もまたみんなでこうやって食事ができて、嬉しいです」

「これはもう、僕たち結婚するしかないかもね」

 黒崎はそんな爆弾発言を淡々とした無表情で言ってのける。もちろん冗談だろうが、ここには冗談があまり通じない人物が一人いる。

 杏子が皿に陣の分の料理を取り分けていく。陣は自分でやると申し出たが、杏子は断固として譲らない。

「陣さん、こっち向いてください」

「えっ、何?」

「食べさせてあげます。アーンしてください」

 杏子が箸でつまんだ小籠包を近づけてきた。

「いや、いいよ、自分で食べるよ。恥ずかしい」

「あなたに選択権はありません。強制です」

「いつ権利を剥奪されたんだ?」

「大丈夫です。ちゃんと生地に致死量の毒を練り込んでもらいましたから」

「それ全然大丈夫じゃなーい!」

 陣が大声を上げて大口を開けたところに、杏子がすかさず熱々の小籠包をぶち込んできた。

「あっ! ちゃっ、ちゃっ、ちゃっ、ちゃー!」

 口の中で汁が吹き出し陣は熱さに悶えた。杏子はそんな陣を満足げに見つめている。

「陣さん、頑張って。加油ジョヨウ!」

 他のテーブルの料理を持って通りかかった王さんがそう声をかけてきた。陣の様子を見て楽しんでいる。

「なんで俺ばっかりこんな目に」

 熱さで涙目になりながら陣は呟いた。

 だけど、それが自分の日常だった。

 帰ってこられた。

 大切な記憶を握って。

「陣さん、死にました?」

「意気揚々と生きてるわ! 天真爛漫に生きてるわ! あの青い空に向かって生きてるわ!」

「なんですか、それ」

「いや、ノリで言ってみただけだけど。冷静に訊き返さないで」

「陣くんは今日も面白いね」

「俺はちっとも面白くないです」

 夜が更けていく。

 陣はもう、傍で見守ってくれている人たちの姿を見ることができない。着物姿の女性、皐月がこの場にいるかどうかもわからない。小次郎の姿も見えない。

 だけど、兄はもういないことは知っていた。

 陣は自分にできることをしようと思っている。

「陣さん、北京ダック巻きました」

「おっ、ありがとう」

「中に針千本入ってます」

「入れるな!」

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