ぼくらのマイホーム

 実家の自分たち兄弟の部屋。その部屋の中央で、兄の明人が椅子に座っていた。明人は陣の記憶の中の面影そのままだった。二十年近く前の、高校生の姿のまま。陣のほうはとっくに大人になっている。

「ずいぶんでっかくなったな。つっても俺はずっとお前のこと見てきたけど」

 陣と同じような癖毛。凛とした顔つき。意志の強そうな眉に、優しい瞳。

「おい、聞いてんのか? なんとか言えよ」

 陣の体は震えていた。口を開いてみるが、言葉が出てこない。

「もしかして、俺のことわからないのか?」

「……お兄ちゃん」

「ああ?」

「お兄ちゃん」

 陣の視界が涙で歪んだ。

 明人は一瞬虚を衝かれたような表情になったが、すぐ呆れた顔で取り繕う。

「いい歳してお兄ちゃんとか言うな。恥ずかしい」

「お兄ちゃん」

「はあー」

 椅子に座っている明人は足を大きく開いた体勢で、項垂れた。それから気を取り直して顔を上げて陣を見る。

「それで、どうだった? 俺が作り出した空間は?」

「えっ?」

「ホラーゲームみたいで楽しかっただろ?」

 これまで通ってきたリミナルスペースのことを言っているのだろうか? だとしたら、ちっとも楽しくない。趣味が悪いとしか言いようがない。

「まあ本当は、あれは俺の歪んだ精神が作り出した代物だ」

 明人の表情が真剣なものになる。

「俺の怪物の部分と言えばわかりやすいか」

 兄の瞳は悲しげだった。

「今俺に与えられているスペースは、このちっこい部屋一つだけだ。ずいぶんと追いやられちった」

 つまりここは、兄の精神世界のようなものなのだろうか?

「まあいい。やっとこの姿でお前に会えたからな」

 明人がニッと口角を上げて笑った。

「よくここまで来たな」

 優しい顔だった。陣はいつもその優しさに守られてきた。

「それでお前は、ここに何しに来たんだ?」

 明人のその問いかけが、陣の心に重くのしかかった。

 明人は鋭い目つきで陣を見据える。

 それは叱責の表情ではない。兄は陣の答えを求めている。答えを知っていて、あえて陣の口から出すよう要求している。

「陣。あまり時間がないんだ。ここもいつ崩れていくかわからない」

 覚悟を決めてきたはずなのに、陣は答えたくなかった。

 せっかく会えた兄と、もっと一緒にいたかった。

「本当は、お前をこっち側に連れてくるつもりはなかった」

 もっとその声を聞いていたかった。

「だけど、次第に抑制が利かなくなってきた。初めは『駅』だったな。お前と過ごした思い出が懐かしくて。気づいたら、お前をあの空間に引きずり込んでいた」

 兄の声には後悔の響きがあった。

「リセットしようぜ。ゲームみたく」

 軽い口調で言い放たれた明人のその言葉に、陣は疑問を持った。

「それは、どういう意味?」

「そのままだよ。リセットして、無かったことにする」

 リセットして、初めから。それは……。

「この空間を壊す。そしてお前は元の生活に戻る。幽霊も見えない、いたって普通の人間だ」

 陣の体質を元に戻せるということなのか? そんなことが可能なのか? ……しかし。

「記憶は?」

「ん?」

「お兄ちゃんがいたという記憶は?」

「そんなものいらないだろ?」

 その兄の言葉で、陣の内から怒りが沸き上がってきた。兄を見据え睨みつける。

「そんなもの?」

「ああそんなものだ。腹の足しにもならないガラクタだろ?」

「本気で言ってる?」

 明人はそこで口を噤んだ。真剣な眼差しを陣に向けている。そして陣は悟った。兄は陣にけしかけることで、導こうとしている。

「そんなものなんかじゃない。ガラクタなんかじゃない」

 陣は言葉に心を込めた。

「大切な、宝物だ」

 兄の目が驚いたように見開かれた。そして目から鋭さが和らいでいき、優しい輝きに戻った。

「そうか」

 明人は嬉しそうに小さく笑った。

 陣は決断しなければならなかった。

「俺は、お兄ちゃんにサヨナラを言いにきた」

 明人の顔から表情が消えた。

 陣は胸の内から湧き上がってくる感情を言葉にする。

「俺はもう大人になったんだよ。もういいんだよ。もう大丈夫だよ。自分の身ぐらい自分で守れるよ」

 視界が涙で滲んでいく。自分はいつまで経っても泣き虫だ。

「お兄ちゃんはずっと頑張ってきたんでしょ? ずっと一人で。大変だったでしょ? 寂しかったでしょ? もういいんだよ、頑張らなくて」

 明人が拳を握り締めている様子が見えた。

「わかったふうな口を利くな」

 怒ったような声。

 そしてそれが一変する。兄はニッと笑った。

「兄が弟を守るなんて、あたりまえだろ?」

 陣は目を見開いて明人の優しい笑顔を見た。

「俺は辛くもなんともなかった。むしろラッキーだと思ってたよ」

 それは強がりでもなんでもなく、兄の本心だと感じた。

「お前の成長する姿を見てこられたからな」

 兄が椅子から立ち上がった。今では陣のほうが少し背が高い。

 兄がゆっくりと近づいてくる。

「陣」

 兄が陣のほうに右手を伸ばした。

「大きくなったな」

 兄の右手が陣の頭にそっと触れた。

 その瞬間、陣は昔の自分に戻った。大きな兄。小さな自分。

 目尻から涙が流れていく。

 俯き、袖で涙を拭った。

 ミシミシと部屋の壁に亀裂が走った。

「そろそろ時間だ」

 待って、と陣は心の中で叫んだ。

「完全に崩れる前に、お前はここから出ろ」

 嫌だ、と陣は心の中で叫んだ。

「最後にお前にこれをくれてやる」

 明人が陣の手に何かを押しつけた。

「ただのガラクタだ」

 ガラクタなんかじゃない、と陣は心の中で叫んだ。

 空間が崩壊し始めた。床の一部が割れ、破片がその下の闇の中へ落ちていく。天井も崩れ出した。兄弟の二段ベッドも壊れていく。

「安心しろ。あの化け物に乗っ取られる前に、俺が丸ごと消してやる」

 やめろ、と陣は心の中で叫んだ。

「さあ行け」

 明人の後方に、入った時にはなかったドアがあった。

 明人はそちらに歩いていき、ドアを開いた。ドアの先には何も見えない。

「迷子になるよな」

 最後までそうやっておちょくって。

 陣は兄の行動を否定する自分の心の叫びを押し切り、前に進んだ。

「お兄ちゃん」

 明人が陣に顔を向ける。

 陣は自分の感情を振り絞り、それを言葉にした。

「さようなら」

 明人の目が見開かれた。その一瞬の後、明人は目を細め、その端に涙が滲んだ。

 初めて見た兄の涙だった。

「ああ。さようなら」

 兄の声が震えていた。

 陣は兄の横を通り、ドアを抜けた。

 そして背後でドアが閉められた。

 陣は振り返り、あの部屋に戻りたい衝動に駆られたが、歯を噛みしめて前を向いた。

 もう振り向かなかった。

 辺りは闇で閉ざされている。

 どこに進めばいいのかわからなかった。

 ブヒッ。

 聞き馴染みのある音が聴こえた。

 闇の中に小次郎の姿が見えた。

 ブヒブヒッ。

 小次郎が陣にお尻を向けて歩き出した。陣は小次郎の後をついていく。

 やがて小さな光が見えた。その光は徐々に拡大していく。

 陣の体は光に包まれた。

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