マイホーム2

 体の自由が利かない。

 まぶたが重い。

 窮屈だ。

 体が凝り固まる。

 陣は意識を集中して、目を開いた。

 とても暗い。一見してどこにいるのかわからない。遠くのぼんやりとした明かりがかろうじて周囲に光を与えている。周りにごつごつとした岩肌のようなものが見えた。

 陣は膝を曲げて体育座りをするような体勢で固定されていた。足から肩まで、わずかに伸縮する素材でくるまれて、身動きができない。下が床についておらず、天井から吊られているようだった。体を捻ると全体が揺れる。陣は自分が拘束されていることに気づいた。

 陣はこの拘束から抜け出そうと、体に力を入れもがいた。しかし無駄だった。幾重にも巻きついている素材は強靭で、まったく解ける気配がない。

 陣は体力の無駄な消費に勤しむことをやめ、エネルギーを思考に転換した。

 ここはどこだろう? リミナルスペースにいることは間違いないと思うが。

 考えに集中したい陣だったが、体の自由を奪われることは予想以上のストレスだった。あまり長い時間我慢できそうにない。

 キシキシ。

 陣がどうにか拘束を解く方法を考えようとしていると、何かが軋むような音が聴こえてきた。

 キシキシ。

 音が近づいてくる。徐々にその姿が見えてきた。

 天井に張りついて移動してくる。

 蜘蛛のような烏賊のような、黒い化け物だ。

 陣はそれが兄が変化した姿であると知っているにもかかわらず、怯えた。ガタガタと震える体が逃げ出そうと試みる。

 陣を拘束している素材の天井にくっついている部分が、わずかに動いた。

 化け物が逆さの状態で無数の宝石のような紅い瞳で陣を見据えた。陣はそこに人の意思のようなものを感じなかった。ビルから落ちたあの時とは違う。

 陣は左右に体を振り、振り子の要領で力を加えていく。天井からミシミシと音が聴こえた。

 化け物がやたらと多い腕の一本を曲げ、それから陣に向かって勢いよくその腕を伸ばしてきた。

 上からブチッという音が聴こえ、陣の体が落下した。間一髪で化け物の腕から逃れる。

 二メートルぐらい落ちた感覚があって、陣は地面に体を打ちつけた。地面はゴツゴツとした硬い岩だ。かなりの痛みを伴ったが、陣をくるんでいた素材が微妙に衝撃を和らげた。上手い具合に拘束が緩んで、陣はその糸のようなものから抜け出した。

 キシキシキシキシ。

 化け物が機械仕掛けのように無数の足を一斉に動かして迫ってくる。陣は反射的に逃げ出した。

 そこは暗い洞窟のような場所だった。ところどころに家の丸い蛍光灯が天井に設置されていて、それが辺りをどうにか照らしている。

 陣は天井を伝って追いかけてくる化け物から走って逃げ続けた。

 途中に家の冷蔵庫があった。他にも食卓のテーブルに椅子。食器棚。テレビにパソコン。タンスに、漫画本の詰まった本棚。まるで粗大ゴミのように無造作に置かれている。化け物はそれらの家具を腕を打ちつけて全て破壊していった。

――オマエニワカルカ

 どこからともなく地響きのような音が響いた。陣はそれが意味のある言葉のようだとどうにか理解した。

――コノクルシミガ

 まるでこの空間そのものが喋っているみたいに、音が反響した。

――ズットヒトリデタッタヒトリデ

 陣は岩肌の出っ張りに躓いたが、堪えて走り抜ける。

 壁に家の窓がついていた。

――カラダハミニクイバケモノニナリ

 窓が開いて、そこからナメクジのようにうねる無数の人の手が出てきた。

――キオクモキエテイッテ

 窓から出てきた手が化け物にぶつかると、ぶちぶちっと千切れて地面に落ちた。その手は死にかけの虫みたいにピクピクと痙攣した。

――イタミモワスレテ

 地面に敷布団が敷かれていた。誰がこんなところで寝るというのか。

――チモナミダモナクシテ

 両親の寝室にあるタンスの引き出しが開いて、そこからスーパーボールのような大きさの球体の物質が地面に大量に流れ出た。球体は白く、血管が通っているような赤みもあって、一部分が黒かった。

――シンデモイキテモイナイ

 通り道に転がってきた球体を陣は踏みつけていった。ぷちっと大きなイクラが破裂したような感触があって、どろっとした液体が周囲に飛び散った。

――コノクルシミガガガガ

 化け物は絶えず背後から追ってくる。

 陣は地の底から響いてくる声に反感を持った。

――オマエニオマエニオマエニ

 違う! この声は兄のものではない。

 兄はもっと温かくて。優しくて。強くて。かっこよくて。

 こんな呪いの言葉など吐くわけがない。

 どんな時も、不敵に笑っている。

 前方が行き止まりになっていた。壁が終わっている。その場所にドアが見えた。

 陣はドアノブに飛びついて捻り、ドアを開けて通過し、すぐに閉めた。

 狭い部屋だった。よくよく観察すると、それは家のトイレのようだった。しかし便器がない。あるのはドアと、外に格子のついた小窓、そして電球だけだ。

 化け物がドアを叩き壊してくるような気配はなかった。呪いの声も聞こえない。静かだ。

 陣はひとまず呼吸を整える。

 妙な感覚があった。視覚に違和感がある。

 部屋の大きさが、小さくなっているような気がした。少しずつ、縮んでいっているような。

 天井が先ほどより低い気がした。壁と壁の間隔も狭まっている。

 嫌な予感がして、陣はドアノブに手をかけた。

 ドアは開かなかった。どんなに力を込めても。

 そうしている間も、少しずつ部屋が収縮していく。

 陣は強烈な恐怖を感じ、ドアノブをガタガタガタと揺らした。するとボキッとドアノブが外れてしまった。陣はドアノブを握ったまま、ドアに体当たりをする。しかし無駄だった。

 陣の頭に何かが触れた。視線を上げると、そこに天井があった。

 陣はパニックに陥った。上手く呼吸ができず苦しい。過呼吸になっている。横幅も手を伸ばせば壁から壁に届いてしまう距離だ。

 部屋はさらに圧縮されていく。

 陣はついに身動きが取れなくなった。壁に張りついている虫のような体勢のまま、全方位から体を圧迫されていく。自分の荒い呼吸音がずっと響いている。全身冷や汗でびっしょりだ。頭は横を向いている。呼吸に応じて膨らむ腹まで圧迫されてきた。

 部屋はさらに縮んでいく。

 体の自由が利かないままずっとここに閉じ込められるというだけでも気が狂いそうだ。しかしそれすら許さないというように部屋の壁が陣を押し潰していく。

 忍耐の限界を超えた意識は、感覚を手放していった。視界が闇に閉ざされる。音も聴こえなくなった。匂いも触覚もない。恐怖で浮き出た酸味さえ。

 そして意識も消えていった。

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