懐かしい場所

 朝、陣は目覚めた。自室のベッドの上だ。

 眠っている間夢を見ていた。夢の内容はもう思い出せない。

 だけど兄のことは覚えていた。

 体を起こし、机の上の品を眺める。

 カード、ゲームのコントローラー、腕時計。

 どれも懐かしい。兄と一緒に過ごした日々が思い出される。

 陣は身支度をし、仕事に向かう準備をした。

 あの女の子と約束をしたからだ。



「さあゲートが開きました。おおっとー、一頭大きく立ち上がり出遅れたー! これは痛恨の出遅れだー! 出遅れたのは圧倒的一番人気のオウゴンノフネ。120億の馬券が水泡に帰すのかー!? 観客席では罵詈雑言が飛び交っているー!」

 黒崎が式場でマイクテストという名の競馬実況を行っている。陣は気にせず祭壇の設置準備を続けた。

 一段落ついて、ふーっと一息ついた陣は、近くに人の気配を感じた。

 白いワンピースを着た女の子だ。女の子は設置された自分の遺影をじっと眺めている。

 今日はこの場で彼女の通夜が行われる。

 彼女は今どんな気持ちだろうか?

「ねえお兄さん」

 女の子が陣に話しかけてきた。

「なあに?」

「これ、アプリで加工した写真使っちゃだめなの?」

「えっ?」

 女の子は自分の遺影を指差している。

「どうせならもっと可愛く撮れた写真がいいんだけど」

 自分の遺影を見てどんな悲しみに暮れているのかと思ったら、写真写りを気にしていたのか。最近の子はずいぶんませている。ませているというか。

「俺はこの写真で充分可愛いと思うけど」

 朗らかな笑みを浮かべている女の子の遺影を見て陣は言った。

「そう?」

 女の子はそれで一応納得したようだった。まさか幽霊から遺影にケチをつけられるとは。

 通夜の時間になり、弔問者たちが入場した。女の子は脇で控えている陣の横に立って状況を眺めている。女の子の同級生らしき子供たちの姿も多かった。

 遺族席で一人の女性がハンカチを口にあて嗚咽を漏らしている。隣の男性が気遣うように女性の肩に手を置いている。女の子の両親だ。

 女の子は学校からの下校途中で交通事故に遭い、亡くなった。とてもやるせない。大切な子供の未来を奪われたのだ。

 依頼した住職が式場に入り、お経を唱える。お経の合間合間ですすり泣く音が響いていた。陣の隣にいる女の子は静かに佇んでいる。

 お経の最中に、座席から一人立ち上がった。十歳ぐらいの男の子だ。女の子のクラスメイトだろうか? むすっとした表情で祭壇のほうへ近づいていく。

「うわああああ!」

 何をするのかと思ったら、男の子は突然雄叫びを上げて暴れた。住職の近くの葬儀用具を手で薙ぎ払い、灯籠を蹴りつけ、祭壇に飾られた花をぐちゃぐちゃにしていく。

 陣が駆けつける前に、男の子は喪服を着た男たちに取り押さえられた。

 葬儀は当然中断を余儀なくされた。

 男の子の両親は女の子の両親に何度も頭を下げて謝罪し、式場の外へ男の子を連れ出した。会場の中にまで叱責の声が響いてくる。

 両親の泣き顔にもあまり動じていない女の子だったが、男の子の行動に初めて動揺したようだった。陣は式場の中を黒崎と杏子に任せ、男の子の後を追った。

 男の子の父親ががっちりと男の子の服を掴み、もう一方の手で今にも殴りかからんというような様相だ。

「大丈夫ですか?」

 陣の声に男の子とその両親が一斉に振り返った。

「申し訳ございません。とんでもないご迷惑を」

 父親が男の子の服を掴んだまま頭を下げた。

「いえ、大丈夫です」

 陣が男の子を見ると、目が合った男の子が怯えたように顔を逸らした。

 式場から出てきた女の子が陣の隣に立った。思い詰めた表情で男の子を眺めている。

 それからしばらくして、女の子の通夜が再開された。

 暴れた男の子は式場に戻らなかった。



 陣は仕事を終え、駅のホームにいた。ホームの端まで進み、電車を待つ。その場所なら誤ってぶつかって線路に転落する可能性が低そうに思えるからだ。できるだけ人が密集しない場所がいい。

 列車が到着し、陣は運転室側の壁に背中を預けて立った。走り出した列車の中で物思いに耽る。

 脳裏に漆黒の翼を広げ夜空に溶けていった怪物の姿がよぎった。

 兄はどこへ行ったのだろう? もう自分のもとには戻らないつもりだろうか? たった一人で身も心も怪物になるのを待つつもりだろうか? それに小次郎までいなくなってしまった。

 陣は孤独を感じた。もう両親でさえ、陣のことがわからない。

 兄はこの孤独にずっと耐え続けた。どうしてそこまでできるのだろう?

 兄と話をしたかった。

 兄の気持ちを聞きたい。

 もう一度、会いたかった。



 小次郎は短い足を懸命に動かしていた。

 野を越え山を越え、街を突っ切り、橋を渡り川を越え、目指すべき場所に突き進む。

 そこは懐かしく、そして温かい場所だ。小次郎が家族として迎えてもらった場所。

 明人の匂いを辿り、ここまでやってきた。

 さあ帰ろう。ぼくたちのお家へ。

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